ゴジラKOMについて

さて、まず今回このやたら長い文章を書いた理由を先に示しておきたい。
『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(以下KoM)をゴジラじゃないと批判している人を見かけたからだ。
曰く、核の象徴としてのゴジラが~。曰く、核兵器の扱いが~。曰く、神としてのあり方が西洋的で~。
それらの批判に対して素人なりに一生懸命考えたので擁護意見として見てほしい。当然ネタバレが多く含まれるし、前提として映画を観たあとの文章なので、観てなかったら読んでも全然意味わかんないと思います。

まず大前提を最初に言っておくが、この映画のストーリーが下敷きにしているゴジラ作品として『1954年のゴジラ:初代』と『メカゴジラの逆襲』の2本があるという点を理解してほしい。
なぜこの2本か。この2本は監督が同じだ。本多猪四郎監督。彼の作品においては人類・怪獣・科学者というキャラクターの振り分けがなされている点が特徴といえる。初代においては人類(宝田明・河内桃子)・怪獣(ゴジラ)・科学者(志村喬・平田昭彦)。メカゴジラの逆襲においては人類(インターポール等)・怪獣(チタノザウルス・ゴジラ)・科学者(平田昭彦・藍とも子・佐々木勝彦)となる。KOMにおいては人類(軍隊など)・怪獣(いっぱい)・科学者(芹沢博士・マーク・エマ)となっている。
本多猪四郎監督作におけるそれぞれの役割は
人類:過去の罪を忘れ、現代を面白おかしくやっている。
怪獣:現代を破壊しようとしている。
科学者:現代を憎み、怪獣に共感している。
となる。
さて、ここで重要なのは、初代とメカゴジラの逆襲において共通のキャストがあるという点だ。それはつまり平田昭彦が演じる芹沢博士と真船博士だ。それぞれの物語をザッとまとめると
芹沢博士
戦争後、その罪を忘れて楽しげな日本人に絶望して研究に没頭。オキシジェン・デストロイヤーを完成させ、鬱々と日々を過ごしていた。婚約者の山根恵美子が尾形秀人に心惹かれていることに気づき、平和を祈る少女の歌声を聞いたことで自分が過去の戦争という憎しみに囚われている存在であり現代社会にそぐわないことに気づく。そしてゴジラに対してオキシジェン・デストロイヤーを使用することを決断。幸福に暮らせよと言い残してゴジラと海で溶け合う。
真船博士
自らの発見を無視され、現代社会に居場所がなくなったことで怪獣コントロール装置の研究に没頭。怪獣コントロール装置を完成させるがその過程で娘を失う。怪獣を使って現代社会に復讐しようとするが、サイボーグとして蘇っていた娘を道具扱いしている自分の醜さに気づき絶望。最後は盾にされて射殺される。
なぜこの二人が同じ平田昭彦なのか。それは基本的にはこの二人が同じ人物だからだ。
現代社会に絶望し、世界を破壊しうる怪獣に共感。そしてその怪獣以上の超兵器を開発した科学者である。ただ、最後が違う。芹沢博士はゴジラと同一化しながら滅ぶことで現代社会を守り、真船博士は怪獣を操って世界を破壊しようとする。
この違いが、KOMにおいて非常に大きな意味を持つと思う。
KOM劇中において渡辺謙演じる芹沢博士(KOM)がゴジラに触れて、核を爆発させるというのは初代における平田昭彦演じる芹沢博士(初代)がゴジラへの同一化を果たしたことへの言及だと考えるのが自然だ。
だからこそ、KOMで復活した直後のゴジラはマークとアイコンタクトを取る。それはゴジラに渡辺謙が同一化したからこその描写ではないだろうか。
芹沢博士が核を使うという表面上の描写に対して文句を言うのは(気持ちはわかるが)製作者の意図とは大きく違うのだ。あそこは、怪獣への共感を示し続けた芹沢博士がついにゴジラと溶け合うというシーンなのだから。
核について触れたので、ついでに核の恐怖としてのゴジラが描けていないという批判に対して反論しておく。
KOMは、核の象徴としてのゴジラを描いているのだ。
どう描いているか。それは相互確証破壊に基づく抑止力としての核だ。
怪獣が現れて以降の世界において、ゴジラは最強の怪獣であり世界の守護者だ。
しかしそれは『他の怪獣』の存在ありきであって、他の怪獣が動けばゴジラも動く。そしてその恐怖の傘のなかで人類は暮らすしかない。この考え方、そしてその恐怖をそれほど意識せずに一見のんきに暮らしている人間という構図。これはまさに現代における核の描写として正確ではないか?
1954年に"使用される核"としての恐怖を描いていたゴジラが、現代においては抑止力としての核になっている。全く自然なことだ。もちろんアンチ核兵器という意味が薄れているのは大きな問題だが、外国で作られているのに日本と全く同じでは作る意味がないだろうとも言える。意見に賛成か反対かは置いておいて、描いていないというのは全く的はずれなのだ。まず正しく読み取って、そこから賛成反対という意見を表明するべきだと俺は思う。
閑話休題。
芹沢博士(初代)に対応するキャラクターとして芹沢博士(KOM)が存在するという点は述べた。
では、真船博士は?これはもちろんヴェラ・ファーミガ演じるエマだ。
怪獣を操る装置を開発し、悪に利用される家族を失ったことで狂った科学者というだけでもいかに意識して作られたキャラクターであるかは分かると思う。
自らの過ちをゴジラに正してもらうという点でも同じだ。(怪獣コントロール装置を使って現代を破壊しようとするがゴジラに敗北:オルカを使って現代を破壊しようとするがゴジラに敗北)
そしてこの二人は本質的には芹沢博士(初代)の影でもある。それはオキシジェン・デストロイヤーと怪獣コントロール装置とオルカという、それぞれの超兵器を開発したという点からも明らかだ。
ヴェラ・ファーミガと渡辺謙の二人が両方共特攻作戦で死ぬのは、一つの映画で2回も特攻をやるのはワンパターンだからダメだという批判は(エンターテイメントとしての批判としてはありえても)物語上のあり方としては全くの的はずれなのだ。芹沢博士(初代)を分割して出来たキャラクターなのだから、同じような死に方をするのは当然なのだ。

次に、神のあり方が西洋的でどうのこうのという批判。
これは、西洋で作ってんだから当たり前だということと、そもそもちゃんと読み取ってますか?ということが気になる。
KOMはアメリカ映画なので、当然3幕構成になっている。始まりから南極でマークが気絶するまでの第1幕、イスラ・デ・マーラからゴジラ復活までの第2幕、最後の咆哮までの第3幕、プラスエンドクレジットとオマケという構成になっている。第1幕は画面がずっと青い。2幕は赤黄色系。3幕は青く始まって黄色に戻ってラストは青と黄色。
なんで神のあり方についての話で突然3幕構成と色の話を始めたのか。これは、この3幕それぞれの色づかいが、実は王のあり方や神のあり方と絡むからだ。
金枝篇という本がある。そこで指摘されている『王殺し』という概念がKOM世界の色づかいを読み解く鍵になる。
王殺しというのは王が古くなって力を失った場合、古い王を殺して新たな王を立てることで世界に秩序を取り戻すという考え方だ。これは、王権神授説(王様ってのは神に権力を与えられてるから正当で、この世界・クニを支配するのは神の意思なんだという考え方)が流行する以前の古い考えだ。
つまり世界の秩序は王の存在によってなされていて、世界がおかしな事になるのは王の力が弱まったからだという考えなわけだが、これは王によって世界のあり方が変わるとという考えだとも言える。だから、映画開始当初、この世界の王がゴジラであったときは青い画面が支配的だった。それがギドラに王位を奪われる2幕では赤+黄色系のギドラ色に変わる。ゴジラ復活によって世界は青に戻って、ギドラが変電所を食うと画面が黄色になって、ギドラを殺してゴジラが立ち上がると画面の下半分は黄色っぽいが空は青っぽく描かれている。面白いのは潜水艦だ。核が爆発するまで=ゴジラが復活するまでは艦内が赤い光で照らされている。ゴジラが復活すると艦内が青い光で照らされている。別に自然光でもないのに、ディスプレイの光などによってそうなるのだ。まさに王位に誰がついているかで世界が変わるのだ。
そしてこの映画がちょっとおもしろいのは、王殺しのストーリーでありながら王権神授説にも少し影響を受けている点だ。
それは山頂に君臨するギドラが十字架をナメて映されるシーンに示されるようにギドラが悪魔のように描写されることだ。そして芹沢博士(KOM)がFalse Kingとつぶやくシーンだ。つまり、ギドラは悪魔によって権力を与えられた偽王だという描写になる。そしてそれに対応するゴジラは当然自然神によって権力を与えられた真王というわけだ。
そして偽王を食った真王は、偽王の力を取り込み、また新たな世を作るからラストの咆哮シーンは黄色+青なのだ。
ことほどさように、西洋における核の考え方、そして神と王のあり方を盛り込んだゴジラが今まであっただろうか。アメリカ人がゴジラを作って、その中心にその監督の思う世界を塗り込めている。このあり方が、ゴジラでなくてなんなのか、と。つまり、好き嫌いはおいておいて、こんなのゴジラじゃないみたいなことを安易に言う人のことが全然分からない。
でかい怪獣が暴れる映画の中に、監督の世界観(誤用じゃない方の意味)を塗り込めているのだから、これこそゴジラなんじゃないの?

めったに長文書かないので支離滅裂な文章になった。まぁ、読む人もそれほどおらんでしょうから許されよ。

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