ジョーカーについて:混乱編

あまりにも混乱が収まらないので、混乱したまま書いてみる。

最初に観たときは、オマージュシーンとかがあんまり好きじゃなかった。
なんていうか、嘘っぽく見えるというのかなぁ。
メタ視点が入ることで、ちょっと現実に引き戻されるような気がした。
でもなんか、段々違うんじゃないかと思うようになってきた。
つまり、そもそもこれ、全部嘘なんじゃないかなっていう。
タイトルが出る直前に、倒れてるアーサーの胸についてる花から水が流れ落ちるの。
でも、そんなところから水出るわけないよね?
コミックのジョーカーが胸の花から毒の水を発射するからやってんだけど、でも、アーサーの胸の花から出るのはおかしくね?
あとさぁ、妄想の彼女とのデートのあと、お母さんから香水の匂いがするって言われるじゃん。
おかしくね?
アルフレッド・ペニーワースが、惨めなオッサンの母親を侮辱して、軽く脅しつけるって、あるの?
アメコミ、特にDCはそんなに詳しくないからするかもしんないけど、なんか違和感があるんだよね。
パンフとかで、キリング・ジョークにおけるジョーカーのセリフに何度か言及がある。
「自分に過去があるのなら、そこには選択肢があると思いたい」。
これがジョーカーの考えであるとしたらどうだろう。
つまり、これは全部選択肢の一つとしてジョーカーが考えたことでしかないとしたら、おかしなことが全部起こり得るわけだ。
そして、過去の映画のオマージュシーンは、全部ジョーカー自身が映画にオマージュして嘘を考えたってことで納得できる。
ところで、仮に嘘だとしたらこの映画の意味は失われるの?
もちろんそんなことはない。
だって、そもそもフィクションじゃん、この映画。
フィクションにはフィクションでしか表現し得ない価値がある。
そして、ジョーカーが作った嘘だとしても、ジョーカー自身がそうだと信じるのであれば、それはやっぱり真実だよ。
メタ視点と主観視点が文章の中ですらぐちゃぐちゃしてるところに俺の混乱ぶりが表れていると思う。


さて、観た直後の感想で、俺はこの映画を優しいと言った。
まずそのあたりから説明してみたい。
よくこの映画に関して、ジョーカーに共感するから危ない、といった言説を見かける。
でも、そうじゃないと俺は思う。
いくつか理由がある。
まず、映画に影響されて人を殺すようなやつは、キッカケを探してるからこれ以外でもキッカケがあればやるよっていうこと。
それから、この映画がジョーカーに共感させる作りだからといって、ジョーカーの行動を善としているわけでもないし、しょうがないともしていないし、同じ行動を推奨してるわけでもないということ。
これは、劇中でも流されるモダンタイムスがこの映画の下敷きだからだし、劇中でセリフで説明されるからだ。
モダンタイムスにおいて、チャップリンは落とし物の旗を届けようと旗を振りながら走る。すると後ろからデモ隊が表れてチャップリンが先導者と間違われる、という下りがある。
ジョーカーという映画においても同じ構造があって、アーサーは単に過剰防衛と銃に酔って3人のウォールストリート・ガイを殺す。それを知った民衆が富裕層に対する階級闘争をしかけるようになる。
どちらも本人に先導する意思も、扇動する意思もないわけだ。
そしてジョーカーはマレーの番組でこう話す
「俺は政治も革命も信じていない」
大意だが大体こんなことを言っている。
ジョーカーは自分がやったことを真似してほしい、あるいはついてきてほしいなどと思っていないのだ。
勝手に影響を受けるやつがいたとしても、それはジョーカー=この物語という嘘をついた人物=映画の作り手の意思ではない。
階級闘争をしかけたいわけでも、暴力革命を扇動しているわけでもない。
じゃあこの映画は何が言いたいのか。
俺は、共感だと思う。
マレーの番組でジョーカーがこう言っている
「なんでアイツラに同情する?俺が道端で死んでたってお前らは無視するだろ」
「Nobody thinks what it's like to be the other guy.」(IMDBより:誰も他人のことなんか気にしちゃいない)
アーサーもそうだった。誰も彼のことを気にしていない。ウェインに会いに行ったとき、トイレで金持ちのオッサンとすれ違ったときのことを思い出してほしい。
あの状況、外の暴徒が侵入してきたと考えるのが自然な状況で、あのオッサンはアーサーのことを無視した。
もっと言うなら、気づいていないんだ、アーサーが存在するということに。
それを象徴するのがアーサーがカウンセラーに言ったセリフだ。
「For my whole life, I didn't know if I even really existed. 」(IMDBより:俺は今まで生きてきて、自分がこの世界に存在してるのかわからないんだ)
ジョーカーはジョークのなかでアーサー(と思われるジョークの登場人物)のことをこう描写している。
精神を病み、孤独で、社会から見捨てられたクズのような男だと。
少なくともアーサーはこの世界のなかでジョーカーになるしかなかったと感じている。
それはだれも彼に共感してくれなかったからだ。
子供を喜ばせようとすれば「 Would you please stop bothering my kid?」(IMDBより:ウチの子に構わないでくれる)と言われる。
カウンセラーに話しても一つだって聞いちゃいない。
父の温かみを求めても、拒絶される。
母親に愛を求めたが、自分は養子でしかも虐待されて育っていた。
世界に喜びと笑いをもたらそうとしても、嘲笑を浴びるだけだった。
父親の代わりになってほしいと思っていた、ずっと尊敬していた司会者にも晒し者にされた。
もし誰か一人でも彼の話を聞いていてくれたら、彼はジョーカーにならなかったかもしれないんだ。
もしアーサーがゲイリー(小人症の芸人仲間)と友達になって相談できていたら、彼はジョーカーにならなかったかもしれないんだ。
この映画はたしかにジョーカーになるアーサーに共感するように作ってある。
だからといってジョーカーになろうっていう映画じゃないんだ。
ジョーカーになるしかないと思わせないようにしなきゃいけないんだって、みんなに言ってんだよ。
お前の近くにジョーカーになりそうなやつはいないか?いたら少しでも話を聞いてやってくれ。そして共感して、支えてやってくれ。
俺はこの映画にそう言われた気がする。それってすごく優しい話じゃないか。
誰かを、こいつは悪だから俺とは違うと断罪するのは簡単だ。
でも、自分にとっての悪人にだって、共感できるところはあったかもしれないんだ。
もしかしたら、ボタンをかけちがわなければそいつも善人だったかもしれないんだ。
俺がネトウヨやネトサヨを悲しい気持ちで見てるのはそこなんだ。
アーサーは悪行を通して人に認められることで、この世界における自己を確立する。
でも本当は、もっと前に誰かが共感して、話を聞いて、抱きしめてあげればそうはならなかったはずなんだ。


他にも俺には気になることがある。
アーサーがいつ、なんで笑ってるのかってことだ。
緊張すると笑ってしまう。確かにそうなんだろう。
でもそれだけじゃないと思う。
例えばジョークを聞いたとき、アーサーは笑う。
でもその笑いはひどく不自然だ。
どこで笑ったら良いのか理解できないけど、場の空気に合わせるために、あるいは自分はジョークがわかるのだと示すために笑っている。
特にランドルがゲイリーを馬鹿にしたとき、明らかにアーサーは笑えていない。ハーハーハーと声を上げているだけだ。
じゃあ本気で笑ってるのはどんなときだ。
それは、この世界のジョークに気づいたときだ。
カウンセリングで話をしているのに、カウンセラーが話を聞かないとき。
喜びと笑いを届けるために舞台に立ったのに嘲笑されているとき。
自分には家族がいると思っていたら、それはすべて嘘だったとわかったとき。
子供を喜ばせるために始めた仕事を、自分が身を守るためにと持っていた物でクビになったとき。
父親だと思っていた男がすべて否定して母親を狂人扱いしてきたとき。
政治家が貧困層を助けると言いながら、本当はそんなことかけらも興味がないとき。
そういうときに彼は笑っている。この世界がジョークで満ち満ちていることに笑いが堪えられない。
こんな笑える世界に生きていて、普通のジョークで笑えるほうがどうかしているのだ。

あと余談。
ここまで書いてきておいてなんだが、俺はこの映画をあんまりジョーカーが完全に誕生した話だとは思っていない。
俺はこの映画のジョーカーを、まだマーブル状にアーサーが混じった存在だと思ってる。
でも純粋にジョーカーに近づく瞬間もある。それがダンスするシーンだ。
ダンスをするシーンでは、弱々しいアーサーが肉体から消え去り、セクシーで露悪的なジョーカーだけが残っているように感じる。
どこでアーサーはジョーカーになったのか、という疑問をたまに見かける。作り手側もそれはこの瞬間といえるようなものではないと言っているが、俺もそう思う。
アーサーとしてこの世界という喜劇に笑い、ジョーカーとしてこの世界の悲劇に涙するのがこの映画のジョーカーだと思う。
だから、あともう何回か、彼は踊るだろう。その肉体からアーサーが消え去るまで。


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