RPG好きとしてのユア・ストーリー

「キミはもう、クラウドになったかい・・・?」

 これは、俺の生涯に渡って絶対唯一のゲームであり、俺の全てのエンタメに対する感覚の核であるFF7のキャッチコピーだ。

 ゲームと映画は何が違うのだろうか。それは、感情移入だ。どれだけビジュアルがフォトリアルになっても、主人公が勝手にしゃべるとしても、方向キーを押す、あるいは左スティックを倒して画面のなかで主人公があるき出した瞬間。コマンドを選択して敵に立ち向かった瞬間。主人公がどれだけプレイヤーの現実でのあり方と違っていても、間違いなく主人公=プレイヤーになるのだ。映画は時間をかけてあらゆる演出、ストーリテリングを駆使して主人公に感情移入をさせていく。ゲームはプレイヤーの選択に沿って主人公が動き始めた瞬間に感情移入している。それが違いだ。だからアクションゲームで主人公が殴られると「イタッ」と言ってしまうのだ。

 ファイナルファンタジーシリーズでは、初期の作品を除いて主人公は自律していてしゃべる。もちろんFF7におけるクラウドもしゃべる。1997年当時、ガキだった俺にとってクラウドは超クールで超カッコいい兄貴だった。一緒に冒険した仲間であり親友だった。そして同時に、クラウドの体験は俺の体験だった。俺は、クラウドになったんだ。

 ドラゴンクエスト ユア・ストーリーという映画。この映画が、俺は本当に嫌いだ。本当に不快だ。なぜなら、こいつは、土足で、俺の大切な領域を踏み荒らしてきたからだ。

 映画の終盤。ミルドラースことウイルスソフトは、重力を切ったり、コリジョンを切ったりする。こんなものはただのデータであり、現実じゃない。大人になれよ、と言ってくる。もちろん、それに対して主人公は反論する。そしてその内容に俺はそれほど異議はない。そしてウイルスを駆除して、家族とともに幸せなエンディングを迎える。


ふざけるな。


お前がやったことを分かっているのか?山崎貴。お前総監督と脚本だよな。全責任は貴様にある。

俺はお前を許さない。

DQがゲームなのは知っている。登場人物がデータなのは知っている。

だがそれでも、俺にとっては、一人のRPGプレイヤーとしての俺にとっては、ゲームのなかでは生きていたんだ。それを一度テクスチャーを全部剥がし、分解し、思い出ごと冒涜し、殺したんだ。

たとえその後で、俺が書いたことと同じような内容をようなことを言ったとしても、その冒涜した事実は無くならないんだ。柱に釘を差して、釘を抜いたとしても、穴は残るんだ。

お前のように、RPGに愛も想いも情もない馬鹿に言われなくてもなぁ、アイツラが生きてて、俺が一緒に冒険したことは分かってんだよ!そんなわかりきった事実を、ドラクエの良さも分からん馬鹿が、自己満足のために汚していいと思うなよ。

俺はかつてクラウドになったと書いた。FF信者だ。でももちろんJRPGの先輩であるDQにはリスペクトがある。DQ5だってやってる。

つまり俺は、リュカでもあったんだ。

ビアンカと結婚したこともある。俺には息子と娘がいて、スライムナイトのピエールという戦友もいた。

俺にはあの世界に沢山の思い出がある。

俺はかつてリュカだったんだ。


その俺に、貴様は、「お前の友人も、お前の家族も、お前自身も偽物だ」と言ったんだ。そのあとでオタメゴカシを言ったとしても、貴様が俺の物語を汚した事実は変わらない。

俺は絶対に、山崎貴を許さない。

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