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【ガチヨタ】右の頬をぶたれたら・・・?

みなさんこんばんは。
おはよう、こんにちは
初めましての方は初めまして。

今日はなかなかにいい日でした、前代未聞の夕立に襲われましたが、それを補ってあまりあるほどに充実した休日を送ったものです。


最近読んだ本に書いていた、「なぜ人は愛のあるなしを考えはするのに、愛し方については論じないのだろう。」というフレーズになかなかの衝撃を受けたので、今回はそれについてつらつらと書いていければな〜〜〜〜、ぐらいに考えてます。

その本が語る真髄とは、「相手に笑いかけて欲しければ、まず笑うこと。」というものでした。
真理ですね、相手に先になにかを求めるのは僕も愛とは思えません。
どこまでも、利己的であり続けるというのは限界がありますからね。
自分の中の欲動のようなものに折り合いをつけるのもまた大人になるということなのでしょうか。
知らんけど。

ではまず、愛とは何かを考えてみましょうか。
「愛」
そのものの価値を認め、強く引きつけられる気持。

  • かわいがり、いつくしむ心。「子にそそぐ―」。いつくしみ恵むこと。「神の―」。いたわりの心。

    1.  「人類―」

  • 大事なものとして慕う心。

    1.  「母への―」。特に、男女間の慕い寄る心。恋。

Oxford Languagesの定義より

確かに、与えること・気持ちはあれど、なにか見返りを求めるようなことはなさそうですね。

愛とはなんなんでしょうね。
手に持てず、目にも見えないものは僕にはよくわかりません。
ひとまず、大切な人たちと触れ合うときに抱く気持ちをここでは一旦愛としておきましょう。

どう愛するのか。

ロバートコンクリンの『説得力』を読んでください。
以上。



というわけにもいきませんね。
なんか少し恥ずかしい気持ちになりますが、つらつら書いていこうと思います。

僕は性悪説信者なので、常に心にある悪性を忘れることのないように生きるようにしています。

性善説と性悪説

いきなり性悪説を引用したことで、昔の歴史の授業を思い出した人もいそうなので、少しだけ解説を入れておきますか。

性善説とは、孟子という古代中国の儒教の人が唱えた説です。
簡単に言うと、人の本質は善であり、物欲などの後天的なものが人を愚かにするのだ、というものになります。

反対に性悪説は、荀子というこれまた古代中国の儒家が唱えたものです。
人の本質は生まれながらにして悪であり、善的な行為というのは、教育・学問・修養によって後天的に獲得するものである、というものです。

僕はどちらかというと、この性悪説の方が好きです。
人間は皮を一枚ずつはがしていって残るのは悪なるものでないと、僕の精神性に関して説明がつかない気がしているからです。

とはいえ、悲観的になる必要は感じていません。
いつでも、自分の中の悪性と向き合う必要があるな〜ということをぼんやり考えているだけで、チョンボをしてもすごく楽な気持ちになれますからね。

閑話休題。

早速どう愛するのか、というお話になってきますが、人はどこまでも利己的な生き物です。
自分の中にある利己性を理解せず、ひたすらに生きている人間が多すぎる、どこまでも。

仕方なくはあると思います、自分の中の欠点というのは目を逸らしたくなるものですから。
向き合うというのはそれだけでとても体力を必要とする行為です。
求めよ、さすれば与えられん。というわけではありませんが、まずは自分の欠点を認めることから始めるべきではないかな〜とぼんやり思います。

あまり主語を固定せずに話を進めていましたが、まずは自分の愛し方から考えていこうと思います。

よく、自分の機嫌は自分でとろう、という文言を耳にしますが、全くもってその通りだと僕も思います。
どこまでも、利己的であれ、そしてそれと同時に慈愛に満ちたものであれ。
それが自愛にも繋がるのではないか、と思います。

僕の場合はタバコと書き物ですかね。
タバコがなければ豊かな気持ちで暮らすことは難しいし、紙とペンを取り上げられてしまえば、頭の中が掃き捨てられなかった言葉たちで埋め尽くされて、大変なことになってしまいます。

ニコチンと言葉たち、それが僕の場合の自分の愛し方なのかもしれません。
あなたのはなにになるのでしょうね。

まずは自分からだろうて。

愛し方、と聞いて主語に浮かぶのはどうしても二人称もしくは三人称になると思います。
ですが、自分すら愛せない人間がどうやって他人を愛することができるというのでしょうか。
僕には甚だ理解ができません。

自分を抱きしめられない人間が、抱擁の手順を知っているとは到底思えないのです。

他人の愛し方

まずは微笑みかけることです。
そして、相手の話をゆっくり聞いて、適度な相槌を打つ。
必要であれば、握手や抱擁を交えながら。
それが形而上のものでも構いません。
まず、与えること。
神も言っています、「右の頬を叩かれたら、左の頬を差し出しなさい。」と。

人は、利己的な生き物だということを、ここまでかなり口すっぱく書き散らしてきましたが、僕はそれを真理に近いものであるとして生きています。

自分を満足させるために他人を使うし、それに飽きたら情のかけらぐらいしか残りません。
ひでーやつだな。

とはいえ、相手からもそういったものが返ってくるのであれば、それは情ではなく双方向のものになりますね。
循環なのかなんのかはしりませんが、誰かとの間に心地の良い感情を抱くことができているのであれば、順逆とはいえ愛のようなものはあるのでしょう。

好き・憧れ、と愛とはまた別ですからね。
そういったものはどうしても、相手になにかを求めながら成立するものです。
どこまでも言葉遊びでしかない気もしますが。
くだらねえ。

僕が人のことを好きになる感情は、飼っていた犬を愛でていた時に近い気持ちです。
すごくひどいことを言っている気もしますが、悲しきかな一番近い感情がそれなのです。

犬いいですよ。
人生で3匹飼っていたけれど、個性があり、かわいげがあり、なによりも僕のことをすごく愛してくれます。
抱きしめたら温かいんですよ、命の熱を感じます。

閑話休題。

というわけで、僕の人を好きになるという感情の説明を挟んだところで、なんの話をしよう。
哲学的なことを書こうとすると、いつもの支離滅裂加減がアクセルをベタ踏みしてしまうのが悪癖です。

なんか書きたくなったので、僕の話を挟みますか。

僕は今、すごく満たされています。
以前は、いろいろなものを求め過ぎていました、途方もないほど。

しかし、自分の地元よりも田舎の空気に触れ、水を浴び、雨に打たれ、風に吹かれて、少しずつ少しずつ僕の中の汚く濁ってドロドロになっているなにかが流れ出ていくような気がするのです。

もちろん、最初から田舎に住んでいたところでこうはなれていなかったと思います。
何度も言っている気がしますが、僕は都会が大好きなので。
天を衝く摩天楼、無機質なまでに動き続ける地下鉄、蛍光色に彩られる夜の街並み。
僕の好きな時間の全ては都会的要素によって作り上げられることがほとんどです。

しかし、田舎に来て思うのは、田舎もいいなあ。
というただそれだけのことに過ぎません。
生活の基盤をここに据えようとは思えませんが、それでも僕は田舎も好きです。
雨も風も空も、僕を包む全てのものが、とても綺麗です。
雨が降ったあとの、ペトリコールの中身が違いすぎる。
澄んだ優しい匂いがしている。
最近は、そんなのどかな世界を自転車で走り回る生活をしています。

閑話休題

男ってあんまり笑わないらしい

なんかの本に書いてあったのですが、男性という生き物はあまり他人に対して笑わないそうです。
確か女性に対して70パーセントほど、同性である男性に対しては30パーセントほどだったかな。

僕は割と笑うほうなので、その結果に対して驚きを覚えたものです。

その情報を得てから、意識的に男性の表情を見るようにしているのですが、男性同士で話をしている時はやはり、微笑んでいないことが多いのです。

そこで、僕はある実験をしました。
僕が微笑みながら話すと、相手はどんな反応を返すのか。という簡単なものです。

すると、女性は9割ほど、男性でも7割ほどのかたがたが微笑みながら話をしてくれたのです。

昔の偉いひとが、「人は鏡である」と言いました。
僕はまさしくその通りだと思います。
自分の微笑みが、相手を介して見えてくるのです。

眉間にしわを寄せて睨まれながら話を聞くことが好きな人というのはおそらく少ないでしょう。
なら、話をしてくれる相手に対してそういった姿勢をとらないようにするだけで、相手にも好印象を与えられるというだけの寸法です。

これを読んだあなたも、明日にでも試してみてください。
あなたの苦手な人にするとより効果があるかもしれません。
微笑みかけて欲しければ、まず自分から。というお話でした。
ミラーリングというコミュニケーションの方法だそうです。

心をかしめるには。

かしめる
金属などの継ぎ目の緩みを叩くなどして治す行為。

これは、僕が最近知ってなかなかに気に入っている語彙になります。
かしめる、響きも意味もすごく好きです。

僕は心の継ぎ目がよく緩むので、その度にいろいろな方法でかしめています。

「自分の機嫌は自分でとれ」という言葉がありますが、自分の機嫌すら取れない人間が、他人の機嫌をとれるわけもないですよね。

ミラーリングを使い分けよう

まじでまとまりなくなってきたな。
まあいいや、諦めも時には肝心ということで、先ほど紹介したミラーリングの個人的な解釈も含めながらお話していこうと思います。

人は類似性のあるものに親近感を感じるそうです。
つまり、相手の言動や表情を真似すればそれだけで親近感を獲得できるというのが「ミラーリング」、というわけです。

先ほど紹介した際には、こちらから微笑みかけることで、相手をミラーリングへ誘導するという使い方でした。

いいことは伝播させていけばいいじゃないのかな〜程度に考えているので、「あいさつ」や「ほほえみ」をミラーリングしてもらうようにガンガン仕向けていきましょう。

挨拶ってなんですると思う?

この質問はある会社の人事の人から質問されたものです。
当時今よりも幼かった僕は正解を出すことができませんでした。

挨拶は一番最初の承認だから。

だそうです。

なかなか納得したものです。
僕自身それまで自分から挨拶はするものの、形式的なものでしかありませんでした。
しかし、自分の納得できる理由を見つけられたことにより、挨拶の大切さを腹の底に落とせたわけなんです。

考えてみれば、挨拶も一種のミラーリングに分類してもいいですね。
こちらから挨拶を仕掛けるのか、あちらからなのかは別にしても、同じことをしているわけですから。

「おはようございます!」と言って。
「ぶち殺すぞ!」と返す人はあまりいないんじゃないかな〜。
多分相手もおはよ〜と言ってくれるはず。
これミラーリングだよな。

右の頬をぶたれたら

結構長くなってきたので、そろそろ電気を消してベッドに入ろうと思います。
タイトルのお話を少ししてからにしますが。

僕、こう見えて教会に通っていた時期があったんですよ、習い事で英会話をしていたことがあり、そこがプロテスタントの教会だったんです。
当時小学校高学年でしたが、コミカライズされて非常に読みやすくなっていた新約聖書を皮切りに、最終的に旧約・新約が一冊になった分厚い聖書を購入するほどに敬虔なキリスト教徒に成長したわけなんです。
聖書の売上記録にすこしばかり貢献したんですよ。
長過ぎて全部は読めていませんが、それでもなかなか面白い。
さすがは世界一売れているだけあるなあ、と思ったものです。

というわけでタイトルは聖書の「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」『マタイ』 5,39より拝借しました。

そういえば今回はミラーリングについてのお話をしたのを覚えているでしょうか。
つまり今回のタイトルは、「右の頬をぶたれたら、左の頬をブン殴れ」というものでございました。

ほな眠気も限界なので、寝ます。
また近いうちに、おやすみなさ〜い。


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