夢から逃げてきた人生から充実の世界へ

はじめまして「いろえんぴつ」です。「まだ何者でもない」男が、2021年自分史上最高の1年にするために、これまでの人生の棚卸しを綴りたいと思います。このnoteは、これから始まる挑戦に向けての決意表明であり、原点であり、コンパスであるかなと考えています。振り返ってみると、これまでの人生は、頭の中を駆け巡る〈傷つきたくない、失敗したらどうしよう、笑われたらどうしよう、どーせ自分には無理だよ〉という気持ちと折り合いをつけて生きてきた35年間でした。だけど、その気持ちは人生でそれほど大切ではないと気づきました。今は、「人生でそれほど大切でないモノや気持ちを守り、失わないように生きるより、自分の人生に意志をもって生きたい」と強く思います。This is me「これが私」【動画のキアラ・セトルさんのように】力強く語れるそんな男になります!それでは、夢から逃げ続けてきた35年間の物語を綴らせていただきます。

【幼少時代】

一言で言えば「ド」が付くほどの田舎、小さなコミュニティで生まれ育った。何度か転校を経験し、転校するたびに、仲間ができるか不安だった。認められたいという気持ちが強かった。小さなコミュニティの中では、運動ができる子で、泥だんご作りも上手だった。自分の好きなことや得意なことを褒められるのがとても嬉しかった。

【小・中学校時代】

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◆私と普通

小さなコミュニティの中では、人とのつながりがとても強力だ。そして人間関係は固定化されていた。一度嫌われたり、仲間から外れることは「安心して生きていけない」ということと同じだ。私の両親は、専業農家。クラスの友達の家でそんな家は一つもなかった。だから、それがものすごく嫌だった。外遊びやスポーツが大好きだったから、肌がすごくやけていた。友達から「黒糖」「黒人」とあだ名をつけられ揶揄された。とても辛かった。私は「普通」に憧れていた。同時に「普通って何?」という気持ちが悶々と頭の中を駆け巡っていた。

◆私とスポーツ

野球、バスケットボール、サッカー、バドミントン、マラソン、陸上競技、なわとび、器械体操・・・とにかくスポーツが大好きだった。マンガの主人公〈ドラゴンボール、スラムダンク、H2、DREAMS、マラソンマン〉みたいにHEROになりたくて、家で秘密特訓に取り組んだ。自分でメニューを考えて、マメが破れるほど素振りをして、ヘトヘトになるまで走り込んだ。好きなことに、とことん打ち込むこと、夢中になれることが幸せだった。

年齢とともに、好きだったスポーツは、勝ち負けを意識するようになり、プレッシャーに変わり、辛くなったり嫌になったりすることはあったけどそれでもスポーツは多くのことを私に教えてくれた。努力の大切さ、自分の喜びは人の喜びになる、仲間とのつながり・・・

スポーツの場面では、キャプテンを任されることも多く、リーダーとして活動することも多かった。この経験は、私の強烈な自信となり、強烈なトラウマとなっている。リーダーとして、プレーで貢献したり人一倍努力したりすることは好きで、得意でもあった。だけど、仲間を鼓舞したり、励ましたり、時には注意したりすることはとても苦手だった。仲間が練習中にふざけていたり、気が抜けていたりすることが許せなかった。でも、「こんなこと言うと嫌われるんじゃないかな?」と考えると上手に伝えることができずに、孤独感を感じることが多かった。私は、リーダーにはなりたくないと思うようになった。

◆私と人気者

小さなコミュニティでは、小学生の高学年〜中学生になる頃、「おもしろい=カッコいい・モテる」になるという事件が発生した。これまでは、スポーツに熱中し、それだけでかっこいいを目指してきた私にとっては大事件だった。クラスの中でお笑い係が人気となり、おもしろい人がモテると言う現象に、とても焦った記憶がある。「ここで変わらないとモテない!」と勇気を振り絞り、お笑い好きの友人と仲良くなり、漫才やコントを披露する男に生まれ変わった。人気者でいるために、変化を恐れず行動できた経験の一つである。

【高校時代】

◆私とラグビー

小学校3年生から7年間続けてきた野球を辞めて新しいスポーツを始めようと決心して迎えた高校生活!バスケットボール、サッカー、陸上競技等いろいろな部活の体験に行ったが「経験者には勝てないよ!」「今から始めてよレギュラーになれないよ!」といった外野の声に負け、なかなか部活動が決まらなかった。そんな時、たまたま声をかけてくれたのが恩師となるK先生。これが私とK先生、そしてラグビーとの出会いだった。「ラグビーは、全員が初心者から始めるスポーツや✴︎田舎すぎて地域の中学校にはラグビー部がないので・・・」「スポーツで最も多い15人でやるスポーツや。」「ラグビーは前にボールを投げれないけど、前に進む理不尽なスポーツや。横とのつながり無しには進まれへん。」「男には、負けたらあかん、逃げたらあかん場面が絶対ある。」入部した頃からラグビーの魅力だけでなく、男としてのあり方を教えてもらった。1年生からレギュラーとして試合に出させてもらい、全国大会にも2度出場した。全国大会出場となると、メディアからの取材があり、全校生徒はもちろん、地域の方々からも寄付金をいただくなどして応援される。その期待に応えたいという気持ちが強かった。それと同時に、全国で戦う学校はデカくて、速くて、強かった。2年生の頃には、創部以来初めて全国大会で1勝を達成し、シード校と対戦した。100点以上取られて敗退した。「バケモンだな・・・」「同じ高校生か?」そんな気持ちにもなった。3年生の時には、副キャプテンに指名された。中学校で挫折していたリーダーの役割だったので、絶対なりたくないと仲間に話していたが、先生からの指名だった。「お前は役割があった方が生きるから」ということだった。嫌々だったが、副キャプテンとしての活動がスタートした。私たちの代は3年間の中で「最弱の年代」というレッテルをいろいろな人からはられていた。K先生だけは「最強か最弱かは分からない。だけど、ここまで仲の良い学年はこれまで見たことない。だから最高の学年や。」と励ましてくれた。しかし、結果は、全国大会に出場できなかった。3年間で初めての出来事だった。3年間で最後になった試合。3年間一緒に戦ってきた仲間は入試のために出場できなかった。私たちの合言葉は「Sと一緒に全国に行こう」だった。仲間との約束を守れなかった。先生との約束を守れなかった。努力は報われなかった。先生からの最後の言葉は今でも脳裏に焼き付いている。「みんなすまん。負けたのは俺の責任や。でも、これがラグビーや。怖くても苦しくても悔しくても逃げたらあかん。そんな人間になってや。」先生も泣いていた。

✴︎詳しくは〈僕たちの11.9の物語で〉↓↓

◆私と進路

気づいた頃には、「教師になりたい」と考えていた。K先生への憧れもあった。何より大好きなスポーツを通して、感動を共有できる仕事、一緒に泣ける仕事なんて当時の私には他に思いつかなかった。「高校3年生の12月まで部活がある」ことは入部した頃から分かっていた。中には、「ラグビーやってたら進路は諦めた方がいい」という辛辣な意見をいう先生もいた。それがムカついたので、「勉強でも負けない」という意地があった。結局、志望校へも無事合格することができた。

【大学時代】

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◆私とアメフトとバイトとギャンブル

初めての一人暮らしがスタートした。不動産の契約、銀行口座の開設、スーパーでの買い物、自炊、生活の一つ一つに対しての知識のなさ、スキルのなさを痛感した。「義務教育で教えて」と感じるレベルだった。大学に入学するまでは、「バイトで稼ぎまくる」という謎の闘争心を燃やしていたが、気づいたら「アメフト部」に入部していた。完全にノリと勢いだった。ラグビーをやっていたから、体をぶつけることに恐怖心はなかった。緻密な分析と戦略、そしてダイナミックなプレー、ハドル内でプレーを選択し、声をかけるところも好きだ。ファミレスや友人家で分析をしたり作戦を立てたりしながら、夜通し話していた。仲間と一緒に戦うって最高だなと感じていた。

アメフトの練習は週に5日ほど。大学の授業と練習以外の時間は、「アルバイトとギャンブル」に投資した〈笑〉今考えると最高に無知な大学生だった。アルバイトは、テレアポ営業、定食屋、家庭教師、古着屋、夜行バスの案内、デリバリー等、様々なことに挑戦した。そして、稼いだお金でパチンコやスロットに投資して使い切るという素敵な生活を続けていた。「コツコツ投資信託買いなさい。」と当時誰も教えてくれなかった。無知だった。と今は思う。

◆私と教育実習

大学3年生になり、教育実習が始まった。この教育実習は私の人生を左右する出来事になった。教育実習は一言で言えば、めちゃくちゃ楽しかった。授業をプランニングしたり、生徒たちとコミュニケーションをとったりしながら3週間あっという間に過ぎた記憶がある。今の自分にしかできない授業をすると意気込み、劇を授業に取り入れ笑いを提供した。憧れの仕事を肌で感じながら、夢への期待もどんどん膨らむはずだったが、何より一番ショックだったのは、現場で働く先生方の姿だった。先生方はとても忙しそうでした。中にはとても辛そうな先生もいた。教育実習生の授業についてのフィードバックも、「楽しい授業だけど、毎日続けるのは難しいよね。」とか「若いうちはできるけど、私たちには無理だわ。」と、とにかくマイナスオーラ全開だった。「自分が志してきた仕事の行く末がこれか!夢なさすぎる!」当時の心境こんな感じだった。今考えれば、たまたま出会った先生がこんな感じだっただけで、原因自分論で考えれば、「自分の志の低さ故の感情であり、自分が環境変えてやるぜくらいで努力すれば何の問題もない。」しかし、当時は強烈に感じた。「夢がなさすぎる!」

◆私と本気の大人との出会い

夢を加速させるための「教育実習」で、完全に夢を奪われていた。友人たちは、採用試験の勉強、留学、大学院への進学、就職活動等、それぞれの進路に向けて加速していった。私自身は焦っていた。「自分がやりたいこと」って何だった?分からなくなっていた。そんな時、友人のHが講演会に誘ってくれた。「居酒屋てっぺんの大嶋啓介さん」の講演会だった。「大人が変われば子どもが変わる」超ストレートな講演会を聞きに、三重県まで電車で向かった。講演会は最高だった。これまで感じたことがない熱狂的な空間。映像。エネルギーがそこにはあった。めちゃくちゃ興奮して感動した。講演会の後の懇親会にも参加して、大嶋さんと一緒にお酒を飲むことができた。お酒を飲むと「やんちゃな兄ちゃん」という印象だった。「本気の大人ってめちゃくちゃかっこいい」と完全にスイッチONになった。   「いろんな人に会いたい!」と、もはや教員採用試験どころではなく、「どのようにすれば、経営者や全国の本気の人たちに会えるか?」ということだけを考えるようになった。友人のHといろいろな講演会に申込み、本気に触れたり、自分たちで学生団体を立ち上げリーダー教育に興味をもつ学生たちと学んだり、ついには、大学内に大嶋さんを講師として呼び、講演会を主催したりした。ここまでの期間は3ヶ月くらいだったけど、「本気でやれば人は変わる」「周りの人を巻き込むことができる」と体験的に学ぶことができた。そんな中、採用試験も無事に不合格となり、私は進路にますます悩むようになりました。私が出した結論は「シューカツしよ」だった。なぜそう考えたのか?理由は「シューカツをすれば、全国の意識高い大学生と話せるし、なんといってもベンチャーの選考会に行けば、無料で経営者の話聞き放題やん!最高!」という思考回路だったからだ。問題は1つ・・・すでに大学4年生の9月だったこと。「遅過ぎた?」当時は遅いということすら知らずにいろいろな企業〈ベンチャー企業を中心〉の説明会に参加していた。

◆私とシューカツ

私がシューカツに求めていたことは、内定<出会いだった。かっこいい大人=夢を語り、行動している人に会いたいという気持ちだけだった。当時は、大学3回生からシューカツスタートというのが一般的だったが、いろいろな企業の説明会やイベントで出会う仲間の中には、「●●大学1回生」「●●大学2回生の!」とか、スタートダッシュバチくそリードしてる系の人もたくさんいた。私はそんな中、「●●大学4回生の!」と自己紹介して、シューカツにかける思いや、何で今さらシューカツやってんねん!!というところを語った。当時は、結構、変人扱いされたけぢど、そのおかげでいくつかの学生団体からお声かけいただき、思いや経験を語る機会をもらったりした。そんな中、運命の会社と出会った。とにかく「成長速度半端ない」「学校教育でこれ実現できたら半端ない」と思う教育プログラムを提供している会社だった。選考会に来てる仲間もぶっ飛んでる系の大学生が多かった。中には、ギターを持ち歩く学生もいた。私も入社目指して、突っ走ろうとした。しかし、ここで問題が発生した。「そもそも自分は4回生で、同じ世代の内定者は確定済み。という状況だけど、私に選考会受ける資格あるの?」という問題。解決策として、とにかく人事部に電話&メールして、アポを取って直談判。イベントの休憩時間に猛烈営業。これまでの活動内容や思い、会社とのマッチング度、社会で実現したいことなどについてまとめた最強にわがままでまとまりのないレポートを片手に、選考会に参加させて欲しいと猛烈にアピールを繰り返した。人事部の人も、気に入ってくれて、リーダーの方とのアポも確定。これを繰り返しているうちに、何とか、大学4年生の12月頃から選考会に参加可能となった。参加の条件は「現3回生と同じ選考フローに乗ること!→特別扱いは一切ない。合格するかは分からない。合格しても、卒業後1年は内定者ということ。すなわち浪人確定。」すごく嬉しかった。結構何でもありなんや!と感じた。合格するまで、繰り返せば落ちることはないな。という根拠のない自信で、選考に望んだ。選考フローは、当時としては結構斬新で、「受講者の自己評価」「受講者同士の評価」と「人事部の評価」を選考結果に反映されてる感じだった。途中、1泊2日の泊まり込みの合宿もあり、徹夜しながらミッションに立ち向かった。「最高に熱かった!」季節は卒業式間近の3月!東京での役員面接に臨むことになった。振り返ってみると、卒業式が目の前に迫ってくると流石に4月からの生活に不安も感じていた。「このままアルバイトか?」「教師の道は本当にあきらめるか?」「講師登録しとく?大丈夫?」「いや、合格したら大丈夫」と役員面接に臨みました。結果は、不合格!もう一度、関東のマネージャー相手に、「セールス」の選考フロー突破せよという再試験が課せられた。再試験の日は、卒業式が終わった後の4月3日!「新年度始まってるやん!」「同期の友人たち、新採用で仕事始めてるし・・・大丈夫?」この時は、流石に周りの仲間からも心配された。両親には、講師するわ!と軽い嘘でごまかしながら、再試験に臨んだ。結果は、不合格!「決めきれてない!」とフィードバックを受けた。3日間ほど、寝込んだ。泣いた。私のシューカツは終わった。正確に言うと、ここから再チャレンジで戦うことは可能だったと思うが、あきらめた。「決めきれてないよ!」という言葉は、シンプルに心にささり、自分自身の土台を作り直さないと、再チャレンジしても潰れると感じた。結果は不合格だったが、学ぶことも多かった。

・正しい道を選ぶより、選んだ道を正しくする
・本気になると人は変わる。本気は人を巻き込む。
・やりたいこと、できること、必要とされることの共通項を徹底的に磨くことが武器になる。

3つの学びを武器にここから這いあがろう。また、チャレンジしようと決意した4月6日だった。

【社会人時代】

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シューカツの失敗から始まった新社会人生活。といってもフリーターからのスタートだった。学生時代から続けていたアルバイト【塾の講師、家庭教師、夜行バスの受付】はとりあえず継続することにした。大学の研究室の先生に非常勤講師を紹介してもらって、特別支援学校で非常勤として働き始めた。仕事は楽しかった。はじめてのことばかりで、子どもたちと一緒に試行錯誤しながら生活していると実感できた。それでも心の奥底にあるモヤモヤとした思い「このままでいいのかな」

◆私と新しい挑戦

それなりの毎日を過ごしながら、心のモヤモヤを抱える日々。そこでもう一度「シューカツ」に挑戦することにした。「シューカツでの挫折はシューカツで取り返す」そんな気持ちだった。いざ、シューカツを再開してみると、「社会」の壁にぶち当たった。卒業前も卒業後も全く同じ人間なのに、卒業した瞬間から「新卒採用から中途採用」へと変わる構造。非常勤で働く=フリーターという肩書き。「何者でもない自分への情けなさ」いろいろな自分に出会う事ができた。数社の面接を受けた後、企業教育を行う教育会社への内定が出た。企業研修のプロとして生きていくと心に誓い、仕事以外のほとんどの時間を自己投資に使った。新しい季節が待ち遠しかった。

期待と不安を胸に迎えた4月。バック3つで新しい土地へ引っ越し、新しいアパート、新しい会社で働き始めた。内観を土台とした研修プログラムで、1つの講座は5泊6日の泊まり込みで実施する。これが毎月2回。すなわち、毎月2週間は研修センターに泊まり込んで生活するというサイクルだった。自信満々で臨んだ初めての研修講座では、「自分の未熟さ」を強烈に痛感した。研修にこられている人は、新入社員〜管理職、経営者と様々だったが、それらの肩書きを抜きに、一人一人の人間と向き合うことの奥深さ、そしてこれまで正しいと信じてきた、成功哲学や成功ノウハウやテクニックが一切通用しない世界なんだと実感した瞬間だった。仕事はハードだったが、心のエネルギーは高まっていた。しかし、それも長くは続かなかった。半年を過ぎたあたりから、体も心も疲れ果てていた。相談する相手もいない。そもそも休みの日に会うのはコンビニの店員さんだけ。何時間も海を眺めて涙を流す日々だった。気づいたときにはうつ病と診断された。仕事は何とか続いていた。頭の中には「いつ辞めよう」ばかりが浮かんでいた。結局、1年で会社を去る決意をした。「これまでの人生全てが否定された」「自分はダメな人間だ」「逃げたい」そんな気持ちだった。見知らぬ地で、一人で始めた挑戦は一年で幕を閉じた。「実家に帰ってこい」という親の説得を聞かず、大学時代、共にチャレンジした同志のH君に連絡をとった。Hは大阪で教員として夢を叶えていた。

◆私と居候生活

結局、Hの紹介で、大阪で講師として働くことになった。「一緒に住もう」とニートの私の宿まで面倒を見てくれることになった。まさに命の恩人だ。もしHに連絡していなかったら・・・と考えると怖い。心のエネルギー切れをおこしていたが、身体は動いた。講師として担任を任せられ、子どもたちと日々過ごす中で私の心は回復した。子どもたちのエネルギーは本当にすごい。そして、驚くほどのスピードで成長する。人生ではじめての担任。このクラスの子どもたちは、10年以上たった現在でもつながりがある思い出深い仲間たちである。居候生活も1年になろうとしていた頃、私は、今後の進むべきに悩んでいた。これ以上居候生活はできない。もう1年大阪で講師を続けながら教員を目指す。企業で働く。地元へ帰る。いろいろな選択があった。そんな時、高校時代の恩師の先生から連絡があった。「地元に帰ってこい!」「母校で講師をやれ!」

◆私の決断

親の反対を押し切って企業で働き、企業を退職し、地元へ帰ることも拒否してきたここ数年間。地元に帰る選択肢は、逃げじゃないのか?と自問自答していた毎日。それでも、母校で恩師と働くことができるチャンスは二度とないかもしれない。その気持ちが大きかった。私は、地元へ帰る道を選んだ。25歳の春だった。

あれから10年

◆子どもたちの未来を信じ切る
◆目の前の子どもたちと真摯に向き合う

自分なりの信念をもち、仕事に向き合ってきた。地元に帰った翌年には教員採用試験に合格した。社会人となり始めて母親と泣きながら喜んだ。結婚もした。子どもも産まれた。✳︎結婚や出産は語り尽くせないストーリーがあるためここでは省略させていただきます。

自分勝手な思い込み、勢いだけで突っ走ることなく、集団の中で、空気を読みながらある程度周りと協力しながら、うまくやる力も身につけた。それなりの結果も手に入れてきた。それでも、頭の片隅にあるのは、「本当にこれでいいのか?」「これがやりたいことなのか?」という漠然とした不安な気持だった。気がついたときには、幼い頃に自分がなりたくないと思っていたオトナになっていた。

なりたくないオトナ

組織の中でオトナを生きるということ。オトナはよくこんな風に言う。「友達みんなと仲良くしましょう」「時間を守りましょうね」「人の話を聞きましょうね」「人のせいにしたらだめ」「嘘はだめ」

でも、オトナはよくこんなことをする。「考え方の違い、経験の違いが認められず、嫌いな相手を非難したり、批判したりする」「切りのいいところまで学ばせるため、時間が過ぎても終わるまで話をする」「プライドを守るために、自分と違う意見は聞き入れない」「相手が悪かった。環境さえ整えば、運がなかった。」「円滑に進めるために、質問があっても黙り、疑問があっても隠し、賛成だと嘘をつく。」子どもたちは、このオトナの矛盾に気づいた上で、オトナのいうことを聞いてくれている。私は、こんなオトナになりたくないと思い生きてきた。でも、気がついたら、こんなオトナとして生きてた。そんな自分が嫌になった。「なんでこんな生き方してるんだ?」と自問自答を繰り返した。悩みに悩んだある日、一つの答えに到着した。

プライドや権威性、経験を盾にする
組織の中では、何も言わないが正義
周りの評価を気にするということ
失敗しないように、例年通りを繰り返すこと
これらを社会、組織、相手の責任であるとうこと

私が悩んでいることは、上記のような考え方の根っこには、人生でそれほど大切でないものを守ろうとしている姿勢に問題があると気がついた。人生でそれほど大切ではない プライド、優越感、見栄、恥、不安、恐れ、周りからの目、評価を守るために頑張ってきたのか。それを失うことを恐れているか?周りと折り合いをつけながら、我慢して生きることがやりたいことなのか?

悩みの原因と向き合いながらも、日々の忙しさに流されてそれなりの毎日を過ごす日々。季節はまたひとつ進もうとしていた。

人生の転機

2021年1月、私の人生に転機が訪れた。それは突然の宣告だった。5日間ほど頭が割れるように痛かった。お酒の飲み過ぎか?と軽く考えていたが、病院に行くと「即入院です。」診断は「脳底動脈解離」脳卒中や脳梗塞を併発する可能性のある病気だった。最初の5日間は集中治療室での療養だった。副作用で身体も怠く、1日をベットに寝たきりで過ごす。「これで本当に人生終わるのかな?」そう考えると本当に怖かった。怖さと同時に、家族の顔が浮かんだ。「家族は幸せだったんだろうか?」「子どもたちに何を残せてやれたんだろう?」そんなことを考えると自然と涙がでた。頭痛が始まってから自宅で安静にしていたこと、早めに受診ができたこと、さまざまな要因が重なり、6日目には一般病棟に移ることができた。「このままではダメだ」その衝動のおもむくままに行動してみようと決心した。その日から自分の人生を見つめ直す作業が始まった。このnoteも入院中の病室で書き始めた。「一度きりの人生、自分がどうありたいか?」「家族は幸せだったのか?」その思いだけだった。YouTubeで片っ端から挑戦している人の動画を見た。

泣けるほど素敵な物語で生きてる人が多かった。自分の意志を貫く姿に感動した。自分の思いをストレートに発信している姿に勇気をもらった。

人一人の人生は泣けるほど素晴らしいということに気がついた。そして、それは、自分の人生に置き換えてもいいんじゃないのかと考えるようになった。

◆自分と向き合うことで「見えてきたもの」「見えないもの」

「自分の人生だって、泣けるほど素晴らしいだよ」病室のベットで寝転びながら見るスマートフォンの中の人たちはこんなメッセージを私をくれた。私は、それをもう一度信じてみたいと思った。これまでの人生を振り返りnoteに書き綴りながら、たくさんの問いを自分にぶつけた。「自分にとって幸せとは何か?」「自分が大切にしたいことは何か?」「人生をかけてやりたいことは何か?」「大切な人との向き合い方はどうだったか?」「子どもたちに何を伝え、何を残してやりたいか?」問い続けて見えてきたもの、それは、「挑戦」と「感動」という私自身が幸せを感じ、大切にしたいこと。そして、その根底には、何よりも家族を幸せにする、家族が幸せを感じる時間をつくりたいということ。そんな思いに気づき、少しずつ見えてきたと感じている。しかし、まだまだ見えていないものも多い。「お金を払ってでもやりたいこと」「心の底から好きなもの」そこにはまだまだ、「他人の物差し」があるようでしっくりきていないというのが本音である。それでも、前に進みたいと今は思う。「人生は何が起こるか分からない。」だからこそ、「できっこないをやらなくちゃ」と強く感じている。

将来に対する漠然とした不安と向き合うことよりも、社会や組織の中で折り合いをつけることよりも、他人の物差しで幸せを語るよりも、飛び出す勇気がなくても、人生は本当にあっという間に終わってしまうかもしれないと感じた経験。だからこそ、「今」やりたいこと、「できっこない?だからこそやらなくちゃ」そんな風に思える自分と出会う事ができた。そして、これから出会う人たちに、私もメッセージを送り続けたいと思う。人一人の人生は泣けるほど素晴らしい。できっこないをやらなくちゃ、そんな意志のある人を応援したい。

人生でそれほど大切でないものは捨ててしまう

人生でそれほど大切でないものは失っても大丈夫

だって、そんなもの最初から必要ではなかったんだから

あなたの人生は泣けるほど素晴らしい。

This is me これが私

スタンドFM音声ラジオ「できっこないをやらなくチャンネル」はこちらからhttps://stand.fm/episodes/600e11d983a482989752d8e2

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