ヘブンズヴィルの猫 (習作)

「ああやって、一日中外を眺めているんだ」
老いたマーキーと呼ばれている男が言った。視線の先には、通りに面した出窓の棚の上にうずくまった猫がいた。
 濃い茶色の地に、黒い縞がさざ波のような柄を描いている。肩のあたりから尾の先まで、背中の側は模様入り、腹側は灰色っぽくくすんだ白い毛に覆われていた。
 立って歩いているときは、その模様の配分が、まるでケープを掛けられ勝利を讃えられている競走馬ような具合で、尾を心持ち丸めながら先だけは拍子を取ってゆらゆらと揺らす様は気品さえ感じる。しかし、それを証明することは難しい。なぜなら、この猫は一日のほとんどを窓際で寝そべって過ごすからだ。
 血筋をうんぬんすることは、この場合まったく意味をなさないのだが、あえて言うなら、この猫は完全なる雑種である。
 ギルバート・フィンリーは磨き込まれて鏡のようになったバーのカウンターに両腕を突っ張り、老いたマーキーに「何がほしい」と聞いた。
「私にビールを。1パイント」注文したのはマーキーの隣に立っている中年の白人の男で、フィンリーに笑いかけた表情がぎこちなく、この街へやってきたばかりの新参者であることはひと目でわかった。
「飽きもせず、辛抱強く、一日中だ」マーキーが誰に言うともなく言った。新しい男は、自分に話しかけているかどうか判断に迷い、何か喋るのを逡巡するように幾度か口をもぐもぐさせた。
「もう何年になるかな」マーキーはようやくフィンリーを振り返った。
 フィンリーはビールを新顔の客の前に置き、指を立てた。「気にしなさんな。この爺さんは、近くに誰もいなくても、誰かがいるような調子で喋るんだ。返事をするだけ損だぜ。どうせ聞いちゃいないんだから」
「おい、何年になるんだっけ、あいつが来てから」
「そうさな。六年か七年か」適当に調子を合わせると、マーキーは突っかかってきた。
「ふん、おまえさんに年を数えることができたとはな。ええ、ギル? さてさて、おまえさんもぼけたのか。それともおれの目がおかしいのかな。おれの前には、空いたグラスさえ置いてない。おれがグラスごと食っちまったってわけか。まさかおまえさんがおれの注文を忘れるわけがないだろうからな」
「だからさっき、注文を聞いたろ。あんたはまだ何も注文してないんだ」
「ギル、やっぱりおまえさんはぼけたんだな。この店のカウンターのなかに入って以来、おまえさんは毎日毎日グラスをエプロンで磨き続けて、耄碌しちまったに違いないよ。おまえさんが最初にグラスをエプロンで磨いた日からこっち、おれがバーボン以外のものを頼んだことがあるかね」
「グラスをエプロンで磨く習慣を認めてくれるなら、アタシが客に注文を聞く習慣も認めてほしいもんだね。何になさいます、ミスター」
「正真正銘のバーボン。いつかみたいに、シングルモルトのスコッチなんか出してみろ。おまえさんの頭の上で三日三晩タップを踊ってやるからな」
「踊れるとは思えないね、その足じゃあ。やるなら、先に酒を抜くんだな、マーキー」
「へっ。利いたふうなことをぬかすじゃねえか」
「あんた、ビールのおかわりは?」フィンリーは新顔の客に言った。
「うん。頼むよ。よく冷えたうまいビールは、久しぶりなもんでね」
「そうだろうな」
「長いこと、体を悪くしていたんだ」
「そんなこったろうと思ったよ。だが、もう病からは解放されたんだな」
「ああ、もう心配は何もない」
「永遠にな」
「そうだね、永遠にだ」初めての客は、ようやくくつろいだ笑顔を見せた。そしてごくごくと喉を鳴らしてビールを飲み下した。
「あんた、名前は」フィンリーはカウンターの上をクロスで拭きながら尋ねた。
「シュミット。トーマス・シュミットだ」名乗った男は右手を差し出した。
 フィンリーは手を握り返しながら名乗り、それから「ドイツの人かね」と聞いた。
「いや、オーストリアだ。ザルツブルグの生まれ」
「ようこそヘブンズヴィルへ、シュミットさん。ビールをもっとどうかね」
「もらおう。それと、あんたにも一杯」
 にっこりしてシュミットの好意を受け取ると、こういう場面で、昔の自分なら嫌々会話の相手をしていることをはっきり客に悟らせるほど儀礼的なお愛想ひとつで済ませ、どうにかして侮蔑感を表そうとしていただろうなとフィンリーは思った。客はいくら気の利いたことを言ってやったって、このバーテン風情がという態度をあらわにする。どうしてそんな連中に、敬意を払う必要があるのだと、かつての彼は考えていた。
 だがいまは、耳に快い言葉や、相手を安心させる物腰が自然な調子で出せる。
「住むところは決まってるのかね」
「いや」シュミットは足元に置いた小さな鞄を軽く蹴った。「実は、来たばかりでね。いい場所があったら、誰かに教えてもらおうと思ってたところさ」
「ここは、どこだって、いい場所だよ、シュミットさん。どこにケツをすえようと、二度とそのケツがソファから上がらなくなるって寸法だ。あんたはどこにだって住めるんだ」
「この街は、そうとう大きいようだね」
「大きいとも。古い街でな。キリストが生まれた頃からある。時を追って、街は延々と広がっていったんだ。人口も増え続けてな。けれども、ちっともごみごみしない。できたときと同じように、のんびりして、気持ちのいい光があって、寝心地のいい夜がある。スラムができたりはしない。人が増えても、その分だけ街が広がっていき、自分にもっともふさわしい場所を見つけるチャンスが誰にでも平等に確保されている。それだけ街が大きいってことだし、いまだ広がり続けているんだ」
 シュミットはカウンターに目を落とし、フィンリーが語り終えると満足そうにうなずいた。それからゆっくりと通りに面した窓を振り返った。自分の残してきた思い出が、荷馬車に満載されて後を付いてくるのを期待していたかのように、寂しそうな影が横顔をすべって行くのをフィンリーは確かに見た。だがそれはほんの一瞬のことで、すぐに彼は、別の対象に関心を奪われたようだった。
「あの猫だけど」とシュミットは言った。
 猫は背中を丸め、箱座りと呼ばれる、前足を胸の下にかき込んだ姿勢で、曇りひとつないガラスを通して外を眺めている。まっすぐに立った三角の耳が、何事も聞き漏らすまい、見逃すまいとする彼の────あるいは彼女の────決意を表明しているかのようだった。ときおり、尾がぴくりとする。それは人間が手持ちぶさたのとき、机を指で叩き拍子を取るような動きだった。
「きれいな猫だね。おとなしいし」
「おとなしいことは確かだな。うむ。辛抱強いっていうか。人に触られるのもあまり嫌がらない。だけど、陽差しの強すぎるときはあの窓のスクリーンを降ろしたいんだが、あいつはそれが不満らしくてな。神経質な警備員が泥棒の押し入りそうな窓をチェックしているみたいに、うろうろ歩き回って、外が眺められる場所を探し回るんだ」
「名前は?」
「おれはチャックと呼んでいるがね。本当のところは知らんね」
「すると、誰が主人だい?」シュミットは、泥酔しかけてぶつぶつ独り言を呟いている老いたマーキーに目を移しながら尋ねた。「この店に迷い込んでからずいぶんになるって、彼がさっき言っていたようだが」
「そのとおりなんだがね、どうもアタシを主人とは認めてくれてないみたいでね」
「猫にも選ぶ権利があるってわけか」
「ああ、融通の利かない頑固なやつでな。チャックの先祖はアイルランド人に違いないと、おれは睨んでいるがね。おれと同じにね」
シュミットは打ち解けた笑い声を上げた。「でも、酒場を住みかにするなんて、世界中の酔っぱらいが夢みる理想形じゃないか」
「住まわれた方はたまったもんじゃないぜ。…………いや、猫じゃなくて、酔っぱらいのことだが」
「何を待っているんだろうな。どこかに最愛の人がいるってわけか」
「たぶん、この街ではない、どこかにね」
 シュミットは、咎めるような、怯えたような光を浮かべた目を、一瞬だけフィンリーに向けた。そして、ふいに辛そうな表情になり、ビールのグラスを覗き込んだ。
 フィンリーは禿げ上がった額の生え際のあたりを小指でかきながら、カウンターのなかをぶらぶら移動した。どのような形ででにせよ、人があらためて自分の居場所を意識する瞬間に立ち会うのは、心地のよいものではなかった。
「すると、ペーターも待っているんだろうな」シュミットがぼそぼそと言った。頬が紅潮していた。「私の次男なんだ。四歳のとき、交通事故に遭って」シュミットは落ち込んだ様子で言った。「あの子のことを忘れていたわけじゃないんだ。だけど────どうしてなんだろう」
「まだ、あんたはこの街に慣れてないんだ」フィンリーは乾いた声音で、しかし優しさの感じられる口調で答えた。「この街にいるということが、あんた自身にとってどういうことなのか、ちゃんと考える時間がなかった。そういうことだ。来たばかりのときは、みんな、そういうものさ」
「あの子のところに、行ってやらなくちゃ」シュミットは足元のバッグを拾い上げた。
「こっから四ブロックほど行くと、バスの停留所がある。南へ向かうバスに乗るんだ。運転手に、救護院の場所を聞いたらいい。どこで降りるべきか、教えてくれるだろう」
「わかった。ありがとう」シュミットは足早に店のドアへ向かった。途中で立ち止まり、寒そうな笑顔を見せた。「ペーターに会えて、住むところも決まって、落ち着いたら、また冷たいビールを飲ませてくれ」と言って窓の方へ顎をしゃくった。「チャックの幸運も祈っているよ」
 ドアが開き、そして閉まる音に反応してか、猫がかすかに耳を動かした。
 フィンリーはほうっと息を吐いた。
 シュミットが戻ってくることはないだろうと分かっていた。ヘブンズヴィルの街は、想像することもできないほどの規模で広がっているのだ。彼は息子に会いに、救護院を訪ねていった。しかし、救護院までたどり着くのには、バスに何日も何日も揺られて行かなくてはならない。そしてようやく救護院の門の前に立ったとしても、その敷地は、ひとつの国ほどの大きさが優にあるのだ。あのオーストリア人が息子に巡り会うためには、数え切れないほどの偶然を重ねなければならないだろう。この街には、選挙も税金も医療保険もない。したがって、戸籍も市民台帳も必要ない。誰がどこにいるかを知るには、目的の人を知っている相手と巡り会えるまで、訪ね歩かなければならないのだ。
 フィンリーにしても、先にここへ来ているはずの、親や兄弟や幼なじみに、ひとりとして出会っていないのだ。
 フィンリーの酒場が気に入ったと言い、また来ることを約束して出ていった客のほとんどは、この近くに住む場所を定めない限り、決して戻ってくることはなかった。
 街が大きすぎるのだ。無限なのである。
 気に入った場所へ、自由に腰を据えることができ、また誰にとっても居心地のいい空間が必ず用意されているヘブンズヴィル。規律や拘束はいっさいなし、そのかわりに、懐かしい友人や家族に会おうと思ったら、地球を三周もするほどの苦労を覚悟しなくてはならない。
 自分は諦めてしまった。そしていまは、あいも変わらずバーテン稼業だ。フィンリーはグラスを磨きながらぼんやりと考え続けた。

いつのまにかテーブル席の方へ移動して、だらしなく頬杖を突いた格好でうつらうつらしていたマーキーが、顔をしかめて体を起こした。
 この薄汚い酔いどれの老人は、珍しく常連の客だ。開店から閉店までねばっていることもしばしばである。もしかしたら、酒場に住んでみたいと願っていたひとりかもしれない。ヘブンズヴィルで、夢を実現させたというわけだろう。
 日が暮れてきた。
 入口の看板に灯りを入れ、店内の照明の明るさを調節した。窓のロールカーテンを引き下ろすと、チャックが大きなあくびをし、念入りに伸びをして、窓枠から飛び降り、外へ出て行った。店の脇に、鉢植えを飾る階段棚が置いてある。そこが猫のもうひとつの定位置だった。また、酒を並べた棚のすき間や、カウンターのはじ、客のあまり座らない隅のテーブルなども、チャックのお気に入りのスペースらしい。何か決まった法則があるのか、単なる気まぐれなのか、日によってチャックの居場所は変わる。変わらないのは昼の居場所で、例の窓のところだ。そうして、いつか来るはずの誰かを待ち続けている。

それから、客がやって来た。いつものように、フィンリーの店を通り過ぎて行った。

アイロンの効いた軍服を着込んだ威厳のあるキューバ人が来た。
 片足をなくしたセルビア人がグラスを握ってほっとした顔をしていた。
 着古したシャツのベトナム人が、恥ずかしそうにいちばん安い酒を注文した。
 奇妙な飾りのついた帽子を目深にかぶったモンゴル人が、いちばん強い酒を注文した。 頑固そうな太ったロシア人はペパー・ウォトカを一気に飲んだ。
 闇のような肌をしたガーナ人は、サッカーの代表選手だったと得意そうに笑った。
 高級なスーツを着た香港人は、祖国には二度と帰るつもりはなかったと辛そうに言った。
白髪の南アフリカ人は、するべきことがまだ山ほど残っていたと悔しそうだった。

数えられない年月が過ぎた。
 ヘブンズヴィルでは、年や月の概念がない。だから数えることはできないのだ。
 そんな、浜に打ち寄せる波のような日々のなかで、猫はまだ待ち続けていた。
 広い通りの向こう、街の入口の方角へ、アンテナ代わりの耳と、レンズの輝きを持つ目がひたすら向けているのだった。
 カウンターには、老いたマーキーがへばりついている。
 そしてフィンリーはエプロンでグラスを磨き続けている。
 口癖のように繰り返される習慣。
 そのとき、ドアが開いた。
 入ってきた男は、灰色をした清潔なつなぎの作業服を着ていた。
「あれは────」珍しくマーキーがしゃんとした声を出したが、作業服の男はかまわずフィンリーに尋ねた。
「タローはここにいるのかい?」
「タロー?」
「なんてこった」マーキーが哀しげにつぶやき、ふたたび酔いの回った目になってカウンターに突っ伏した。
「タローなんて知らんな」フィンリーは答えたが、ふと窓際の猫へ視線を移した。作業服の男も気づいて、ポケットから折り畳まれた書類を取り出し、かさかさと広げると、猫と、書類とを見比べた。
「ああ、間違いないようだ」やがて作業服の男はフィンリーにうなずき、愛想笑いを浮かべた。「彼だ」
 フィンリーは事態が飲み込めず、とまどっていた。
 猫はいつもとまったく変わる様子がない。この作業服の男が、待ち望んでいた飼い主であるとは思えなかった。
 作業服の男は、窓際へぶらぶら歩み寄り、当たり前のように無造作な手つきで猫を抱き上げた。
「その猫をどうするつもりだ?」
「連れていくんだよ」作業服の男はチチチと舌を鳴らして猫に顔を寄せた。猫は無表情に男を見上げた。「いい猫だな」
「連れていくって、どこへ?」
「もちろん、センターだよ」
「センター?」おうむ返しに尋ねたとき、誰かに腕をつかまれたので、フィンリーはびくっとした。見ると、マーキーだった。
「なんだ? なんだってんだ、老いぼれ」
「落ち着け、ギル」マーキーがしゃがれた声で言った。「あいつは生まれ変わるんだ」
「なんだって?」
「チャックだよ。いや、タローか。あの猫は、生まれ変わるんだ。再び、魂を宿してな」
 フィンリーはたちまちよろこびで顔を輝かせた。
「すばらしい。するとチャックは本当の飼い主に会えるってわけか」
「そうじゃない、ギル」マーキーはかぶりを振った。フィンリーの笑顔がしぼんだ。「猫に生まれ変われるとは限らないんだ、ギル。エジプトのスカラベになるのかもしれないし、南氷洋のクジラになるのかもしれない。ゼロからのスタートだ。もし偶然、猫に生まれ変わったとしても、そいつはチャックでもタローでもない、別の猫なんだ。まったくの、まっさらな」
「そういうことなんですよ」作業服の男も、済まなそうに言った。「説明が足らなくて、申し訳ない。おたくが、なんにも知らないなんて思いも寄らなかったもんだから」
「おれはヘブンズヴィルへ来て以来、このカウンターのなかにいる。外の仕組みのことなど、なにも聞いていないんだ」フィンリーは作業服の男に言った。「頼む。その猫は、長い間、飼い主がやって来るのを待っていたんだ。もう少し、時間をくれないか」
「うーん」男は困って返事に詰まった。「おれが決めることじゃないからなあ、そいつは。悪いけど、おれもセンターから言われたとおりのことをやっているだけでね。つまりこれは、神のご意志なんだ」
「なら────なら、チャックはなにに生まれ変わるんだ。それだけでも教えてくれ」
 ドアのノブに手をかけていた作業服の男は「おれは知らん」と頭を振り、出ていった。
 ドアが閉まり、店には静寂が戻った。
 老いたマーキーは小さく十字を切り、組んだ腕のなかに頭を埋めて寝息を立て始めた。

フィンリーは、窓際の一点を、いつまでも見つめ続けていた。


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