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行動と操作
扱いやすさ
何かがあった時、「すぐに行動せよ」と推奨する人がいる。対応を行うことは重要であるが、対応するまでの時間の管理は、対応する側にある。状況が悪化しないよう補正する意図であれば状況が悪化する根拠を述べれば良いわけで、わざわざその時間を制限しようとするのは、制限できるように訓練を行わせるのは、使用者が相手を扱いやすくするための欺瞞だと思う。
対人操作
自分の思ったように他人を動かそうとすることを対人操作という。当然に行動の決定権は各人にあり、対人操作に応じるかどうかも選択可能な要素である。この行動の決定権が常に自分にあることは、手放してはいけないと思う。他者の意思による行動は、すべてストレスの要因となる。もちろんそれに適応することもできるが。
受動
世の中には、その決定に人間が介在していない規則であり法則であり現象が存在している。これらには、意思自体がないのでそういうものと捉えるほかない。そういう意味で、対人操作への適応もそれを基礎としてみている限りにおいては、適応の対象となりうる。
適応
適応するとき、人間はときに都合の良いストーリーを作り出す。そこに確認できないはずの意図や意思を見出す。何にとって都合が良いかは、人によって異なるが、基本的には自分にとっての都合の良さとなる。
操作
対人操作が問題なのは、個人の思いで世界の法則を動かそうとしているところにある。世界に対して自分個人が適応するために作り出された理屈は、当然に他の人に適用できるものではないため、他者に働きかけたとき無駄なストレスを与えることになる。視力の悪い人が自分のメガネを他人に掛けさせて、「よく見えるだろう」と言っているようなものだ。余計に見えにくくなっているだけである。
対処
対人操作については、他人を動かすことが当たり前という認識を改めるのが一番良いように思う。他人は、その人の意思で動く。自分も自分の意思で動く。相手に応じなければならない理由は存在しない。仮に応じなければならない理由を作ったとしても、相手がそれに応じるとは限らない。応じさせようとしていることは伝わっているだろうけど。
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