雲歩窯 河野史尚
作品
室町時代の古窯を訪れた時、そこにはたくさんの陶片が散らばっていた。割れた茶わんのかけら、皿のかけら、壺のかけら、何の変哲もないかけら。大した道具も施設もなかったであろう時代にどうやってこれらを作ったのだろう。よく観てみると精製された素材ではないことが分かるが、そのひとつの破片に秘められた力を感じた。帰ってからもその思いはいつまでも続き、自分もこんな焼き物を作りたいと思った。
作品には山や川から取ってきた原料を土や釉薬として使っている。冬になると、薪ストーブから出た灰を半年以上かけ精製し、原料として使用する。土には砂がかなり入っていて形成しにくいし、ろくろを引くと手がボロボロになる。手間も時間もかかるけど、最近は気に入った作品がいくらか焼けるようになった。
一方でオブジェもたまに作っている。器づくりとは全く別の世界で180度振れる感じ。なにか自分の頭の隅っこに残っている断片を繋ぎ合わせるとそれが組み立てられて形になっていく。自分を解放できるので楽しんでやっている。
陶芸という道
兵庫から沖縄の大学に行き、初めて陶芸に触れ、そのシンプルな過程に心地よさを感じこれを生業にしたいと思った。長野に住んだのは、以前イタリアに行っていたときの風景に似ていたから。雪が降ると人は雪かきをし、不便な生活を強いられる。人は自然に生かされているというのをひしひしと感じる。そういう生活が気に入った。
家から見える八ヶ岳周辺は縄文遺跡の宝庫。たくさんの土器や土偶が出土している。人がその土地で何千年も変わらず焼き物を続けているということがとてもうれしい。
ものへの執着心
小さいころからものをいじるのが好きでおもちゃを改造したり、ラジオを分解したりしていた。自転車を買ってもらうとまたそれをいじって手はいつも油で真っ黒だった。
困ったことにそれは今でも続いている。もっぱら修理が多いのだけれど、電化製品から車、家の修繕まで。壊れたものがまた動いたら楽しい、もったいないしお金を使わなくていい、修理するたびいろんな構造やしくみが分かってくるのが楽しい。買わないってことは環境にもいい!という自己満足。
“器用貧乏”と言う言葉はまさに俺のためにあるのではないかと思う。もし誰もかれもがお茶碗を大切にし、一個も壊さなければ……。それは大変困ったことや!
これから
今年は新型コロナウィルスの影響で人々の生活がいろいろ変わった。ものづくりをしている私も少なからず悪影響を受けた。でもいいこともたくさんあった。ずっとできなかったことができた。例えば家の外壁塗り、空き地の擁壁と階段づくり、工房の小屋の増築など今まで気になっていたことができた。野鳥の小屋を作り、観察し、春をいっぱい感じることができた。ほかの人もいいこともあったんやないかと思う。人は問題、災害や苦難に直面すれば賢くなるし、強くなれる。強くなるといっても何も鋼のような強靭な人を目指しているのではなく、今まで以上に人や自然を思いやれる人になる。その思いはきっとものづくりの力になるはず。
今年はクラフトフェアが中止になったけど、次のフェアではいい意味でちょっと違ったみなさんに会えるかもしれないと楽しみにしている。