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【#02】 「天からの梯子」という表題

小さくても星のように

 前回までのblog名は「星を数えながら」「北の大地で 星を数えながら」でした。主旨は「日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ」ということでした。創世記のアブラハムの出来事が背景です。

 主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」 創世記15章5節


イサクを飛ばしてヤコブへ

 アブラハムの続きと言えば、その息子イサクになるはずです。私はイサクの信仰姿勢はとても好きなのですが、例えば創世記26章から「井戸を掘る」というblog名にしてしまうと、働き盛りとは言え、ちょっとしんどいかもしれないと思った次第です。💦

 今年になって、天の梯子(はしご)を思うひと時が何度かありました。それは創
世記28章のヤコブの出来事です。そこで今回のblog名を「天からの梯子」としました。日本語としては「天の梯子」の方が良いと思うのですが、あまりにも有名過ぎる表現なのと、強調点としては自分が天に至る梯子をかけるというよりも、私の今いるところに天から梯子がかけられていることを大切にしたいと思ったのです。

オーキフの「月への梯子」

 昨年、ジョージア・オキーフという女性画家についてのエッセイを読んだことも、「天からの梯子」と名付けた遠因となっています。

 彼女(オキーフ)はまた日干しレンガの自宅の屋根の上に梯子で上って、大峡谷や空を見ることが好きだった。夜は寝袋を持って行ってそこで眠り、日の出とともにまず輝き出す遥か彼方の雪をかぶった山なみの景色に見惚れた。 

 オキーフが〈孤独〉をやり過ごすことができたのは、彼女が「梯子」を持っていたからではないか。この「梯子」二つあった。現実の「梯子」と内面の「梯子」でる。・・・今、自分の存在場所からさらに高く、さらに遠くに自分をいざなうもの。その「梯子」を上って行くことがもっとも自分をして自分たらしめる。この「梯子」があったからオキーフは、寂寥の〈孤独〉の中に生きていくことができたのではないか。

 オキーフの心の中の「梯子」があたかも描かれているかのような作品がある。画面の最上端には、天空高く、白い半月か輝いている。最下端にはオキーフが愛した「平頂山(メイサ)」をはじめとするニューメキシコの山なみの黒いシルエット。メイサから月に向かって、深い緑色の空に明るい色の「梯子」が浮かんでいるーー。
 「月への梯子」と題されたこの絵は、ふだんの力強いオキーフの絵とはかなり違う。静謐で、見る者をして瞑想にいざなうようなところがある。この美しいトルコ石色の空に浮かぶ「梯子」を目にやきつけて、我々はときに、自分の「梯子」は何だろうと考えてみる必要がありそうである。

「オキーフの梯子」海野泰男(常葉学園大学元学長)常葉学園大学『ALBION』
オキーフ「月の梯子」
▲ ジョージア・オキーフ「月への梯子」

ルズからベテルへ

 何か高尚なことを考えて「天からの梯子」と題した訳ではありません。日常の生活の中で天と地がつながっているようなこと、何もないと思うルズが、実はベテルになっていくというヤコブの体験につながっていくものを、見つめることができればと願っています。(ちょっと固い内容になってしまいましたね。次回はそうではありません!)

28:12時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。 ・・・ 28:16ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。 28:17そして彼は恐れて言った、「これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」。   創世記28章

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