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【#259】主は私たちと共に(メッセージの断片集84)

6月9日(日)の様子

 この日、紋別のTさんが礼拝で証しをしてくださること、またMさん夫妻の娘一家が福岡から来られるということもあり、北見と紋別をzoomで結んでの礼拝となりました。Tさんが証しの後半で、主なる神さまがご主人にしてくださったことを語る中で、言葉が出なくなり、ハンドタオルを顔に押し当てている姿に、聞いている私たちも熱いものがこみ上げてきました。

 午後からは、二時から始まる虹の会(三浦綾子読書会)があり、『氷点』を読みました。みんなが村井のうすら笑いに嫌気がする思いを吐露していました。しかしOさんが「この村井のうすら笑いは、啓造による印象、主観の記述だと思います。啓造は医者なのに村井の体調よりも病院経営を心配しているところ、妻の夏枝のことを心配しようとしていないところなど、『氷点』を読む時に、自分にも啓造のようなところがあると思って、読んでいくことが大切だと思います」と話され、みなさんから「おおおーーー」と言われていました。「今日は久しぶりのホームランですね」と私が言うと、「いつもだいたいホームランですよ」と照れながら話されていました。(以下は礼拝メッセージの断片集です)

▲ 画像をクリックするとメッセージのエッセンスを250字で読むことができます。

主は備えられる

 マルタ島はフェニキア語「避難所」意味があります。まさにローマに近いマルタ島を神が避難所として備えておられたのです。飲み水も食料もあり、3ヶ月も泊まることができました。もし漂流して到着した島が、水も食べ物もなく、何もない所だったら大変なことです。さらに神はパウロたち一行に、親切な島の人々を備えてくださっていました。冬の初めだったので、2週間も嵐にもまれ、疲れ切っていたパウロたちにとって島の人たちのもてなしは、心に沁みる暖かさだったことでしょう。もし他所から来た人を敵視する人々のところだったとしたら、避難所にはなりません。

 いろんな状況を見て、「やっぱりあの時、ああすれば良かった」、「何でこんなことに?」と思うところを通るものです。しかし主イエスが私たちと共におられるという事実に目をとめる時、状況が良くないそこにも主の備えがあることを目の当たりにするのです。

主は共に働かれる

 熱病と下痢で苦しんでいる人の所へは普通は行かないものです。それは自分も伝染る可能性が大きいからです。しかしパウロは祈って手を置くのです。その時、癒したのは主なる神です。パウロは何もしなかったのではなく、その人の所に行き、そして祈って手を置くのです。そういう愛を実践するパウロと共に主が働かれて、主が癒してくださったのです。ウロとルカは、自分のためではなく、他の誰かのために愛の行動を惜しみませんでした。他の誰かのために愛の行動をとる時、主も共に働いてくださるのです。

 あの人のために、この人のために、手を置いて祈って欲しい、寄り添って欲しいと主が示しておられる方がおられるはずです。癒しのため、救いのため、平安や生きる力が与えられるように、私たちが愛を込めて実践する時、主も共に働いてくださるのです。

今日も主の恵みと慈しみが、追いかけてくる1日でありますように。 

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