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【#227】どうして(メッセージの断片集72)

受難週

 今週は受難週(聖週間、Passion Week、Holy Week)。主イエスの十字架を仰ぎつつ、過ごしています。昨晩の水曜祈祷会は、受難週祈祷会として十字架の主イエスの言葉とその御思いを共に受け取り、聖餐の恵みにも与りました。

▲ 週報の中綴じに入れる受難週の歩み

 もう10年以上前に作成した受難週のキリストの歩みを、イースターの一週前に週報の中綴じとして配っています。大学生が「こんなにはっきりと曜日が分かるんですか?」と大学生らしい質問をしてくれました。「聖書にはエルサレム入場の日曜日と安息日(金曜の日没)が明確に記されています。他の曜日は記されていませんが、月曜から木曜までは4日間しかないので、『その翌日』という表現などから、だいたいこうだっただろうと言われています」と返答をしました。今から思うと相手は大学生なので、「どうして分かると思う?」と一週間ぐらい考える機会を与えても良かったなあと思っています。(以下は受難週祈祷会のメッセージ断片周です)

私たちの代わりに見捨てられた

 もし牧師の私が病院のベッドで息絶えようとするその最期、感謝の言葉や神を称える言葉ではなく、「神よ、どうして私を見捨てたのですか?」と大声で叫んで息絶えたとしたら、皆さんはどう思われるでしょうか? 「この人はほんとに牧師?」「行く教会を間違えた?」などと思うかもしれませんね。

 主イエスは私たちの罪と裁き、滅びを身代わりに背負って十字架に掛かられました。つまり、この「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という主イエスの言葉は、私たちの代わりに主イエスが父なる神から見捨てられ、私たちが叫ぶ言葉を全部、主イエスが代わりに叫ばれたということです。

 それゆえに私たちは、救い主イエスを信じるならば、神に見捨てられることはありません。主イエスが身代わりになってくださったので、「どうして私をお見捨てになったのですか」という失望、絶望のような人生になることはないのです。

「どうして」の次元が変わる

 主イエスの「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は、詩篇22篇1節の言葉です。この詩篇22篇の作者は、深い嘆きを神の前に吐露している中で主の御声を聞き、主が答えてくださるという、祈りになっています(21)。さらに神を賛美し、その賛美が周囲にまで及んでいます(22-23)。つまり主イエスのこの十字架の言葉は父なる神に届き、やがて復活の賛美となっていくのです。

 私たちは「神様が生きているなら、どうして・・・」という、理不尽さや不条理を抱えることがあります。その「どうして」という嘆きを、周りの人につぶやき、愚痴を言うのではなく、自分で溜め込むのでもなく、私たちも神の前に吐露するのです。その時、主の御声を聞く祈りとなり、やがては賛美となるのです。

 「どうしてですか」という私たちの嘆きは、主イエスの十字架を仰ぐ時、「主よ、どうしてそこまで、私のためにしてくれたのですか」という「どうして」に変えられていくのです。言葉では言い表せないほどの嘆きや傷みの「どうして」が、全身全霊が神の愛に包まれるほどに、賛美と感謝の「どうして」に変えられるのです。十字架から主の愛が流れ出て、「どうしてこんな私のために、そこまでしてくださるのですか」と、主イエスの十字架は私たちの罪を赦し、嘆きを賛美に変える力があるのです。

今日も主の恵みと慈しみが、追いかけてくる1日でありますように。

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