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【#220】本当に眠っていたのは(メッセージの断片集69)

3月10日(日)の様子

 心配ごともありつつ迎えた日曜日の朝。この日のバイブルメッセージを自分が語り手であるのと同時に、自分自身も聞き手として受けとめ、主イエスを見つめるひと時となりました。北見の教会の皆さんを見つめながら、そして紋別の教会に集まっている皆さん、さらに配信を通して礼拝をささげている皆さんの顔をも思い起こしながら、主イエスと一緒に舟の中に乗り込み、向こう岸へ向かっていることを強く意識した礼拝となりました。

 午後からは、K君の送別会を持ちました。就職、卒業、そして来月には結婚と、3つの祝いをしました。北見を巣立っていくんだなあと思うと、寂しさを隠せません。それでもK君にとっては不本意だったかもしれないこの北見の街で、主イエスに出会ったこと、そして洗礼を受けたこと、神の家族が与えられたこと、それらのほんの少しにでも関われることができたのは、大きな喜びです。寂しさは喜びの良い意味での裏返しです。

 送別会後の虹の会(三浦綾子読書会)では、『氷点』を読み始めました。人の心の中にある「くろぐろと不気味に息づいて」いるもの、敵とは何か、本当に戦うべきものとは何かなど、大切なものを見つめるひと時となりました。(以下は礼拝メッセーの断片集です)

▲ 画像をクリックすると、メッセージのエッセンスを250字で読むことができます。

信仰を眠らせない

 ガリラヤ湖はすり鉢状になっていて、山からの突風が吹き降ろし、かなりの嵐の中で、弟子たちは水をかぶって危険な状態になっていました。不思議だなあと思うこと、その嵐の中で、主イエスはよく眠っておられたなあということです。しかも「ぐっすり眠ってしまわれた」のです。弟子たちに起こされまでは眠られています。騒ぐ弟子たちと対照的に、「イエスだけは、ぐっすり眠ってしまわれた」と主語が強調されています。

 どうして主イエスは、嵐の中でもぐっすりと眠ることができたのでしょうか?「この嵐の中で、この舟は沈んでしまうことはない。父なる神が守ってくださる」と、主イエスには父なる神への絶対的な信仰があったのです。神への信仰、信頼があったのです。

 対照的に、弟子たちは実際には起きているのですが、その信仰は眠っているのです。信仰が一番必要な時に、その信仰をどこかに追いやってしまっているのです。
「Gone with the wind、風と共に去りぬ」まさに、信仰や神の言葉が風と共に去りぬ、だったのです。本当の意味で眠っていたのは主イエスではなく、「弟子たちの信仰」そのものでした。

偉大な主イエスを体験する

 弟子たち「向こう岸へ渡ろう」という主の言葉に従って、前進しようとしました。確かに嵐に遭い、波風を見て大いに恐れましたが、風や湖までがイエスの権威が及ぶことに対する大きな驚きを体験し、畏れかしこみました。浅瀬にいたのでは分からないことがあります。向こう岸へ渡ろうとしたからこそ、弟子たちは驚くほどに、畏れるほどの偉大な神を体験したのです。

 今、主が向こう岸へ渡るように、一歩進むように招いているのに、何かを恐れたり、諦めたり、現状維持にとどまっていることはないでしょうか? 信仰の一歩を踏み出す時、私たちは偉大な主の御業を体験することができるのです。

今日も主の恵みと慈しみが、追いかけてくる1日でありますように。

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