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【#217】神の家族として(メッセージの断片集68)

3月3日(日)の様子

 この日はAさんとY君が奏楽奉仕をしてくれました。祈りつつ、よく練習をしてきてくれました。安心感とリズム感抜群のAさんのピアノです。一会衆として賛美を歌うことができるのも、私にとっては大きな恵みです。

 受験生とは思えない受験生のSちゃんも集い、一緒に賛美を歌い、ユースで礼拝をささげていました。今日が受験です。体調が支えられ、ベストを尽くすことができますように。

 日曜日の午後は、函館の教会の教会会議にオンラインで出席しました。I先生を支える方々がおられることが嬉しいです。今年は新しいことも始められそうです。主に期待しています。

見よ、新しいことをわたしは行う。 今や、それは芽生えている。 あなたたちはそれを悟らないのか。 わたしは荒れ野に道を敷き砂漠に大河を流れさせる。

イザヤ43:19

 少しずつの雪解けです。北見や紋別、そして函館の教会に、新しいことがもう既に芽吹いていることを信じます。(以下は礼拝メッセージの断片集です)

▲ 画像をクリックすると、メッセージのエッセンスを250字で読むことができます。

自分の思いを通さない

 母マリヤや主イエスの弟たちは、家族として主イエスのことを心配しているのでしょう。決してどうでもいいとは思っていません。しかし彼らは、主イエスの心の内を聞こうとしないで、体を連れて帰ろうしています。当然のこととして家に連れて帰るべきという自分たちの思いが中心で、結局、主の声は聞こうとしていません。

 相手の心の外側に立って「それは違う、こっちだ、これが正しい!」と、自分の思いを通そうとすると、家族の関係、神の家族の関係は、必ず行き詰まることになります。神の言葉を聞いて行うとは、自分の思いを通さないということです。自分の思いを通していると、神の言葉が聞こえてこないし、実行もできなくなります。

主イエスの思いを聞く

 この時、主イエスはどんな思いだったのでしょうか? 弟子たちや群衆は自分のもとに集まり、神の国の教えに耳を傾けています。しかし最も分かってもらいたい身近な母や弟たちは、神の言葉には無関心です。むしろ「もう止めてくれ」と思っています。喜びの神の福音なのに、一番聞いてもらいたい家族は聞こうともしません。主イエスの心の外側に立って、無理にでも連れて帰ろうとしています。この時の主の思いは、やるせなさ、愛の悲しみがあったことを私たちは聞き取っているでしょうか。

 どんなにか主イエスも家族のために祈ったでしょうか。愛ゆえの悲しみを持ちながらも、それでも主イエスは諦めません。神の言葉を無視しているゆえの痛み、全ての罪を背負って主は十字架に向かうのです。その主イエスに向かって、私たちが家族のことや人間関係のことで痛む時、「主よ、あなたはどう思われますか?」と、主の御声を聞くのです。そこでこそ、本当の家族、神の家族が形作られていきます。

今日も主の恵みと慈しみが、追いかけてくる1日でありますように。

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