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【#149】善悪は主のもの(メッセージの断片集48)

9月24日(日)の様子

 済んだ空がどこまでも高い秋晴れの日、北見から約90km離れた紋別へ向かいました。紋別での礼拝では、Mさんご夫妻の入会式と歓迎会を持ちました。ご主人のMさんとは初めてお会いするにも関わらず、祈りに覚えてきたので、初めてとは思えませんでした。歓迎会では、Tさんが中心になって腕によりをかけて作られた食事をいただきながら、Mさんご夫妻をウェルカムする言葉が語られました。

 Mさんご夫妻がUターンされて住むために、美しく改装された「恵み荘」の祝福祈祷も和やかに行い、私はAさんと共に湧別におられるMさんを訪問しました。前日に91歳になられ、激動の時代を生き抜いてこられました。尊敬の思いをいだきつつお話しを聞かせれもらい、最後に聖書の言葉を一言お伝えし、祝福のお祈りをさせてもらいました。

 幸いな紋別での1日を終え、北見に帰る途中、「おおお〜〜」という出来事に遭遇しましたが、それはまた次回以降に紹介します。(以下は礼拝メッセージの断片集です)

▲ 画像をクリックするとメッセージのエッセンスを250字で読むことができます。

主なる神に全面的に頼る

 ラケルはヤコブの神を信じていないわけではなかったのです。しかし先行きの不安がありました。見えない神だけだと不安なので、見える偶像をお守りとして持って行こうと思い、父ラバンの守り神テラフィムを盗んだのでしょう。

 ヤコブの心にも不安や恐れがあったと分かります。主なる神に導かれていることであれば、神を信頼して、ちゃんとラバンに挨拶をすべきでした。しかしヤコブはかつてエサウのもとを去った時と同じく、逃げるように去って行くのです。

 ラケルのように不安を抱えて、主なる神を信じているけれど、あれもこれも、保険をかけるようなものはないでしょうか? あるいはヤコブのように、人の顔色を恐れて、何かこそこそしていること、本当は向き合わなければならないのに、逃げている、避けていることはないでしょうか? 愛する兄姉、主は私たちに言われるでしょう、「そんなにわたしは小さいですか?」「そんなにわたしは信頼できないような神ですか?」と。今朝、私たちは「主よ、信じます、不信仰な私を憐れんでください」と聖霊によって信仰を強めていただこうではありませんか。

善悪は主のもの

 私たちはことの善し悪し、人の善し悪しを、自分を基準にして決めやすいものです。それは、創世記の最初にある、善悪を知る木の実をもぎ取った原罪によるものです。主なる神ではなく、自分が善悪の基準になると、自分が神にまでなってしまいます。そしてあなたのここが違う、間違っている、人を裁き続けていきます。
 
 人を裁く思いが自分の内にあるので、もし自分に落ち度があるとそれを隠すか、言い訳をするか、責任転嫁するか、あるいは「どうせ自分が悪いんでしょう」といじけるか、自己憐憫に陥るか、あの人もやっていることだと開き直ってしまうか、「あの人の方がもっと悪い」と人を「出し」にして自分の方がマシだと思うか・・・、自分が善悪の基準になると、そこからは全く何の良いものも生まれません。家族や人間関係の中で、誰が悪いかばかりを問い始めると、そこは裁判所のようになってしまいます。

 主が私たちを創造されたのは、善し悪しを言って裁き合うためではなく、愛し合うためなのです。善悪は主のものです、裁きは主のものです、主に委ねるのです。自分を善悪の基準にして人の善し悪しを判断しても、そこから愛も和解も生まれてきません。

 「事の善悪を論じないように気をつけよ」と言われた主は、ラバンの意地悪さもヤコブの視野の狭い怒りに任せた正義感も、ラケルがテラフィムを盗んだことも、誰よりも深く全部知った上で、小さな信仰に立って歩むヤコブ一家を見捨てず、ラバンとの和解を備えてくださったのです。

今日も主の恵みと慈しみが、追いかけてくる1日でありますように。

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