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【#124】荒削りの私たち(メッセージの断片集40)

7月16日(日)の様子

 先週の礼拝で賛美した「歌い続けよう主の愛を」、オーケストラの演奏で新垣勉さんが賛美している動画を見つけました。日本人が作った賛美で、『友よ歌おう』に収録されているので、もう40年以上前のものだと思います。それでも昔の賛美はコード進行がシンプルで、メロディも明確、そして歌詞に深みがあり、老若男女が歌えるというところがいいですね。

 この日の礼拝後は、翌日の帯広での聖会で私が司会をするので、賛美・奏楽チームで練習をしました。ピアニストもギターも安定感があり、ソングアシストもしっかりと音程がとれていて、私としては頼もしい限りです♫ この帯広での様子は、近々UPします。(以下は礼拝メッセージの断片集です)

古い性質を持つヤコブ

 どうやらヤコブは、ラケルに一目惚れをしたようです。もちろん一目惚れが悪いということではありません。しかしヤコブの言動に、人を押しのけてでも何かを得ようとする古い性質、すなわち自己中心の思いがあります。

 どうして人は、自分中心になってしまうのでしょうか? いろいろなことが言えますが、神様を小さくしてしまうからだと伺い知ることができます。例えばせっかくベテルの体験をしたヤコブですが、結婚という大切なことにおいて、主なる神様に祈っている様子がなく、自分の思いで突張しています。つまり、神様を小さくして脇においてしまっているので、結果として自分が大きくなっているということです。

神はヤコブをあきらめない

 ベテルでの特別な主の臨在に触れ、主への献身を告白したヤコブですが、人格的には荒削りな者でした。しかし主はそのヤコブをあきらめません。「わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」(28:15)というベテルでの約束はその後も続きます。

 この「捨てない」というヘブル語は、「あきらめない」と訳すことができます。神はどんなことがあってもヤコブを、そして私たちをあきらめないのです。時に人が神をあきらめてしまうようなことを経験するかもしれません。しかし神が捕らえた人を神は決してあきらめたり、見捨てたりなさらないのです。

 「荒削り」という言葉は、決して褒め言葉ではありません。しかし「荒削りではあるが、光るものがある」などと言われるように、伸びしろや期待も込めて使う場合も多くあります。私たちも荒削りなところ、古い性質、嫌なところがあるでしょう。しかし主イエスはそんな私たちを諦めないのです。むしろ伸びしろがあると期待を込めておられます。あのカルバリ山に向かい、まさに荒削りの十字架を背負われた主は、荒削りの私たちを見捨てないのです。

今日も主の恵みと慈しみが、追いかけてくる1日でありますように。

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