「分かったこと」は分かるのか

 「分かりました?」と聞くことは多いし、聞かれることはもっと多い。自分自身が相手に対して、きちんと伝えられているのかという確認するために聞いていたし、バイトで家庭教師をしていたなんかは、しょっちゅう聞いていた気がする。一方で、聞かれることも当然あった。お互い、なにか伝えたいことがあって、それを相手に思うように伝わったかどうか知りたい、という意図だと思うけれど、散々聞いてきたくせに、自分のこのこととなると、「分かっていない」状態から「分かった」状態になったことは何を以って判断すればいいのかが正直「分からなかった」。

 最近考えて思ったのは、「分かる」は自分の中だけでは完結しなさそうだということだ。分かるを連呼すると、書いていてぐちゃぐちゃしてくるので、教師が生徒に対して「1+1=2」を教えている、という場面で考えてみる。

 この時、生徒が「1+1=2」を「分かる」というのはどういう状況を指すのだろうか。「1の次が2であること」を知ってほしいのか、「1+1=?」という問いに対して、自律的に「?」へ「2」を埋めてほしいのか、はてまた、「3+4=7」という「+」を使った計算までできるようになってほしいのか。それは、その時の教師の側にしか、「分からない」。

 実際の教室でそこまで意識することがないのは、授業を受けた後に控えているテストを教師と生徒とで無意識的に想像し、それができるかできないかということが判断基準になるからだ。あ、この調子で次聞かれるであろう、問題になるであろうことに私は答えられそうだとなって、「分かった!」と生徒は発言する。極端な話、難しそうな試験問題を想定する子は「いつまでたっても分からない」かもしれないし、「=」の後ろに「2」と書くだけの問題だと思った子は「すぐに分かる」ことになるだろう。

 「分かる」は単なる内省的な個人の中に閉じ籠った働きではなく、誰かとの関係性で出来ている。問いを発する人と、答える人との応答が一に定まるとき、「分かる」と。

 もやもやしているけれど、そんな風に思うのだ。まだ「分かった」と書けないところに自分の未熟さをみる。

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