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茶会通信 第三号 開催日2019.9.29

  

 ざおです!!台風もきたことだし、少しは涼しくなるかしら?なんて思っていたら、湿気高すぎ!汗ダラダラ流して出勤する、北部九州の9月です。

 さて、ゆるふわ哲学茶会(笑)三回目もなんとか無事に終了しました。今回、ご参加いただきましたのは、8名。割とゆっくりさせていただきましたが、今回のテーマ、「私たちはどのくらいありのままなのか」は、実に実に難問でございました。そりゃぁね、哲学の知識とかがあってさ、それに照らし合わせてとかすりゃぁ、答えなんか簡単にでるのかもだけど、あたしら、自分の考えはどうなん?っていう、軽薄なゆるふわ哲学茶会なんで(しつこい)、自分の考えを話したいのさ。でもあたしは会の途中で

「もうだめ!わかんねぇ!」

ってなっちゃいました。さすがポンコツ主宰。だってわかんねえもん。しょうがないじゃん。ありのままってことを考えるの、こんなに難しいとはね!

 まず、みなさんと話したのは、ありのままって、成り立つものなのか?ということでした。世の中に出る(学校とかでもね)と、必ず自分そのままというわけにはいかなくなります。その環境と自分とをすり合わせる必要があるはずで、もし、そうしてない人は、周りが迷惑するか、文句言われちゃうはず。と、いうことでした。この話の中にでてくる「ありのまま」は欲望のまま、とか、社会的でない、みたいな意味なのかなと、あたしは思いました。みなさん、そりゃみんな色々な顔を持ってて当たり前よね?という意見で、一致していました。

 ある方から自分の中に軸みたいなものがあるんじゃないかという意見が出ました。その軸はいつもは見えないし、自分自身も気が付いてない部分かもしれないけど、それが、その人の「ありのまま」で、その軸がなんなのかわかっていたら、たとえたくさんの顔を持っていたとしても、それは全部自分なのではないか。なるほど。

 ところで、あたしたちは「自分がこうありたい」のほかに、「こうあれ」とか「こうあるべき」という圧をかけられることがあります。多分、今、多くの人びとが社会との折り合いがつけられなくて苦しんでいるのは、「こうあれ」とか「こうあるべき」の圧が強すぎるからかもしれないなぁと、あたしは思いました。「こうありたい」は見つけられないまま、外からの要望ばかりに応えなくてはならないのは、苦しいことですよね。

 また、ほかの方からは「とはいっても、こうありたいを通したら、社会との摩擦が起こることがあるから、それも苦しい。こうあれとか、あるべきに従うのも苦しいけど、従っているほうが楽だと思って、それを選んでいる人が多いのではないか。結局、どっちの苦しさを選ぶかということではないか」という意見が出ました。確かに、自分を通すのも苦しい、でも自分を殺して役割を演じるのも苦しい。苦しいといえばどっちも苦しいです。でもまぁ、役割を演じるほうが楽だと思って選んでいる人が多いのかな?そのほうが、世間から浮かなくていいものね。でももし「選んでいる」という自覚がなくて「それしかない」と思っていたとしたら?

 自分の軸というものがなにか、に気づくというのは、大切なのではないかと、あたしは思いました。たとえば自分が、今この役割を「選んでいる」と感じるか、「やらされている」と感じるかでは、えらい違いです。自分の軸やら核は、ちゃんとここにこうしてあるけど、今はこの自分でいく。ならば、いくつ顔があったとしても、苦しくないかもしれないです。

 さっきも言いましたけど、今回は難問でした。色々な方面に話題も飛びつつ、行ったり来たりしましたけど、なんとか、みなさんと共通の理解を持つことができたかなと、ポンコツ主宰は思っております。毎回そうなんですけど、当会は、参加者のみなさんで作られています。今月はより強くそう思いました。対話には力があると、すごく感じました。

 開催の様子を取り忘れるポンコツ主宰。ほんとにもうしょうがねぇ。しかも参加者さんに「写真撮りました?」と言われるまで気づかず(笑)

次回の開催予定は10月27日(日)です。13:00からいつもの文学サロンでお待ちしております。300円と飲み物もって、おいでください。来月のテーマは「服と社会」です。服装って社会と密接にかかわっておりますよね?年取ると特にね。

 

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