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『無題』

終わりが透けてきた頃、男が私を登場させた小説を書いたという。「読まない方が良い」とわざわざ言い残し、原稿を置いて男は帰った。この男のそういうところが嫌なのだ。1枚目に『無題』とある。小説まで誘い受けかよ、とうんざりし、わたしは原稿を放っておいて、とりあえず近所の台湾料理を食べに家を出た。

ビールと「鹹蚋仔」。大ぶりのシジミを大蒜醤油で漬けたもの。指で直に摘み、口に運んで、殻の隙間から、軽く吸い込むようにしながら、舌と歯でシジミの身を絡めとる。心細くだらりとした小さな身の、しかし唇に触れる汁の滋味と、はしたなく解ける身のとろりと蕩ける舌触り、溢れる唾液と混じる僅かだが凝縮された旨味は鼻腔へ上がり、豆の甘みと発酵臭、身体の奥を熱くする大蒜の柔らかさ、潮気を含んで。わたしはただ一心不乱に吸い尽くす。指に纏わり付く汁を舐るのも忘れない。

店内に客は少ない。皆それぞれ、周りに気を払う者もいない。わたしは濡れた唇で、空芯菜の炒めものとイカの団子を揚げたもの、魯肉飯を更に注文する。やがて料理を運んできた店主はわたしを見て、「いつも美味そうに食べてくれるよな」と言い、去っていく。店主の上がった右の口角だけが、チェシャ猫のように残る。

わたしはよく食べる。太らない体質を親に感謝しつつ、わたしのこの食に対する貪欲さは、乳幼児期に足りなかった甘えの分なのだろうとも思う。食事だけでなく夜を共にする男たちは、食べるわたしを眺めては、夜を想像して口角が上がるのだ。さっきの店主のように。

このまま満腹になって突然死したら幸せかも知れないと時折夢想する。西太后の満漢全席のように、三日三晩、美味しい料理を食べて眺めて食べて眺めて食べて眺めて食べて、そして呆気なく死ぬのだ。

手首に擦れたロープの硬い感触。

『無題』の中でわたしは餓死していた。

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