遠くを慮る
二十歳の頃、理屈っぽい私は、「悩み」についていろいろ考えていた。
「悩み」んでいた。
何に悩んでいるかわからなくて「悩み」。
「悩み」がない事に悩んでいた、あの頃。
今は、悩もうと思えば、悩めるが、先々の事は考えても仕方ないと思っている。
悩んでいる時間に、前をみて歩くことを優先している。
行き当たりばったりの生き方である。壮年世代になった大人のすることではないかもしれない。
そういう意味ではまだまだ子供なのかもしれない。
仏教の世界では、得度した僧侶だけが遠慮をしていいのだそうだ。
遠くを慮れない、俗世界に存在する私には、遠慮は我の現れなのだそうだ。
何はともあれ、自分がやりたいことをやることで、誰かの役に立てるのならば、やるという選択をしている。自分の存在価値を高めたいと思う。
そして、「初老」とは呼ばれたくないと抗うことで、やせ我慢(実際はデブ我慢であるが?!)と見栄で、「悩む」事に目を向けずに、かろうじて存在しているのである。
いつになったら、遠慮をしてもいい年になれるか、楽しみにしている。
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