えらぶ

「100歳」以上の方の人数が過去最高というニュースが流れた。

そのうち8割が女性であることにやっぱり驚きを隠せない。

皆、一様に「100」という数字を出しアピールするのだが、年齢という価値観や判断基準ではなく、同じ「100」でも僕は「100%」という価値観や判断基準があってもよいのではないだろうかと考えている。 

精神年齢と肉体年齢の乖離が始まるのが、おおよそ74,5歳

勿論、これは平均値であるためもっと早い方も大勢いるでしょう。

しかし、これは数字で表せるものでもないし、他人から測れるものでもないのがポイントである。ただ、バランスが悪くなり乖離が始まると他者との関係性が大きく変化し始める。

それは、誰かに支えてもらいながら生活を強いられることであり、行動の範囲が極端に狭まれてしまうことでもある。このような状態になってきてしまうと他者へ依存もしくは他者への配慮から行動を狭めざるを得なくなってしまい「生きている」のか「生かされている」のかが分からなくなってきてしまうだろう。

精神年齢と肉体年齢の乖離、バランスの欠如に至るまでに自分の「やりたい」ことを「100%」行い、全うするということを自分の人生に課している。 それが僕が求める「生きる」ということだからであり、決して「生かされている」状態に陥りたくないからである。

しかし、年齢を重ねていけばやがて人の手を借りて生きていかなければいけない状況はいずれ来る。 そこで、「納得死」、「全う死」というネーミングを勝手につけているが2つのバランスが崩れたときに「死」という選択肢を選べることが大事ではないかと思う。

「生き続けなければいけない」という価値観、倫理観に支配されている僕らは「死」を選択することは「悪」であるかのように教育されてきた。 

「自殺」がダメであるかのようにである。

しかし、スポーツ選手が引退試合や引退会見を行うように自分で引退を選択できるように「病気」を理由に「死」を選択するのではなく選択肢の幅を広く持ち「自分が人生をやりきった」という理由で「死」を選択できてもよいのではないか?

そのためにも、僕は「事前通知」を家族に行い「条件」を提示する。

例えば、延命治療はしない。

しかし、これは理解はされにくいだろう。 

「60%の力で生きる人生」と「100%の力で生きる人生」を選ぶとしたら後者を選ぶ。 なぜなら、「限られた時間の中でやり切った」と言える人生を送りたいからである。

だからこそ、年齢を基準とした「幸せ」ではなく「行動力・実行力」を基準にした「幸せ」を求めて日々の時間を無為にせず貴重な資源として利用していきたい。

さあ、意志という分母に主体的でありポジティブである分子というカタチで。。。


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