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“映さない”という美学 『プロミシング・ヤング・ウーマン』を見て

『プロミシング・ヤング・ウーマン』を見た。『ドライヴ』『ワイルドライフ』などなど心のポーチに入れておきたい演技を見せてくれるキャリー・マリガンが主演の映画だ。監督のエメラルド・フェネルは、キャリーを"たくさんの作品に出演しているのに、役の中に消えてしまう女優"だと言っていたのはおもしろい。下記作品あらすじは公式から。

30歳を目前にしたキャシー(キャリー・マリガン)は、ある事件によって医大を中退し、今やカフェの店員として平凡な毎日を送っている。その一方、夜ごとバーで泥酔したフリをして、お持ち帰りオトコたちに裁きを下していた。ある日、大学時代のクラスメートで現在は小児科医となったライアン(ボー・バーナム)がカフェを訪れる。この偶然の再会こそが、キャシーに恋ごころを目覚めさせ、同時に地獄のような悪夢へと連れ戻すことになる……。
出典:映画『プロミシング・ヤング・ウーマン』公式サイト | 2021年7月16日(金)公開

公式は“復讐エンターテインメント”とうたっているけれど、こういう消費の仕方はしてほしくないなと個人的には思う。実際に、この映画を見た帰り道ですら、(多分酔っている)男性の集団から、不快な声かけを受けた。この映画がテーマにしているものは、世界中の女性たちが今もなお現実に受けている問題だ。エンターテインメントとして、映画の中の物語のみで受け取ってほしくない。

↓↓この先はネタバレを含みます↓↓






この映画はサプライズの連続だ。まずは、不快な男性陣のキャスティング。その俳優陣は、『New Girl ~ダサかわ女子と三銃士』『The OC』に出演したアダム・ブロディ、『ヴェロニカ・マーズ』『New Girl』に出演したマックス・グリーンフィールド、『エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ』監督/脚本のボー・バーナムなど、青春ものに多数出演したりと、ハリウッドの中でもクリーンなイメージの役者・監督たちがそろっている。

本作のフェネル監督は、Los Angelesのインタビューで、バーシーンに登場したアダム、『スーパーバッド 童貞ウォーズ』のクリストファー・ミンツ=プラッセ、『Veep/ヴィープ』のサム・リチャードソンに、こう指示したという。「自分がラブコメの主人公であることを想像してみて」。このキャラクターと真逆の支持により、さらに恐ろしい王子様像ができあがる。

映画の中には、大きく分けて2種類の男性が登場した。一方は、作中の工事現場の作業員のように悪意に満ちた言葉をストレートに投げかけてくる人たち、そしてもう一方は、スーツを着て社会的に成功している“良い人”の面をかぶった悪人たちだ。弱った女性を“親切心”で介抱するふりをして自宅に連れ込む…。介抱のシーンのみ切り取ると、まさにラブコメの主人公のごとくヒロインを助けたような王子様的存在なのだが、その後には、吐き気のする展開が待っている。監督が“ラブコメの主人公を想像すること”を指示したのは、バーに登場した男性陣に、罪の意識ではなく、むしろ人助けをしたというヒーロー意識が生まれるように仕掛けたのだろう。悪意むき出しで罵倒してくる人よりも、本当に怖いのは優しさや、社会的地位、ルックスなどでカバーしながら欲求を満たそうとしてくる人なのかもしれない。

さらに残酷だったのが、悪人は男性だけではないということ。アリソン・ブリー演じるマディソンとコニー・ブリットン演じるディーン・ウォーカーの二人の女性が、ニーナの悲劇に加担している点も描かれる(こちら二人も海ドラでおなじみの女優)

フェネル監督が語るこの二人の女性像も面白い。ゴールドダービーのインタビューで、この二人の女性が加担した理由が異なっていると彼女は語っている。一見、非道な人間に見えるマディソンだが、彼女自身も、なんらかの被害を過去に受けており、それをスルーすることでそのトラウマの傷を無理やり塞ごうとしてきた人物のようだ。

フェネルは彼女について「マディソンをヴィランだと思っている人がいるようですね。でも、残念なことに、彼女が言ったことは、今でも多くの人が言っていることとまったく同じだと思っています」と語る。マディソンの振る舞いはお伽話の中ではなく、現実に性被害では“よくある話”で、望まない性行為のみならずセクシュアルハラスメントを受けた時は、気にせず笑い飛ばさなければいけない空気が流れている。場が白けたり、関係性が悪くなったりもあるゆえ、必ずしも勇気ある告発に誰かが味方してくれるとは限らない環境だったからだ。

わたし自身も過去にライブハウスで、手を上げながら飛んでいると後ろから知らない人の手が絡みついてきて、そのまま手を頭上で掴まれ、体中を触られたことがあり、それを後からネタに話したことがある。「変な人がいた~」と共有することでしか、ショックを消化できない日々もあった。証拠がない、見ていた人がいない、誰がやったのかわからない。。そんな諦めから見てみぬふりをしてやり過ごさなければならなかった日が、こんな自分の人生にもあるのだ。あと、今はどうかわからないけど、異性からの被害を話しすぎると"モテ自慢"として受け取られる時もあるので、あまりベラベラと話すものではないという暗黙の了解もあったと感じる。

話を映画に戻すと、自分のことでさえそうだったマディソンが、ニーナのために動けなかったのは、彼女自身の経験も関係していたのだろう。

だけど、そんな女性たちにも本作はビンタをお見舞いする。男性からの加害のみならず、女性自身の従来の身の守り方にも疑問を投げかけるのがすごいところだ。

また、マディソンが見て見ぬ振りで自分自身をトラウマから守る一方で、ディーン・ウォーカーは、自身のキャリアを守ろうと悲劇に加担した。キャシーがディーンのもとを訪れるシーンの脚本には「A gorgeous, wood-paneled office(木目調のゴージャスなオフィス)」とト書きがある。10数年前、ディーンがあの一件を騒ぎにしなかったことで、彼女はゴージャスなオフィスを手に入れた。

フェネルはスクリーン・デイリーのインタビューで「彼女が座っている部屋は、マホガニーのパネルで覆われた暗い空間で、いたるところに男性の肖像画が飾られているだけ。家父長制が残る環境です」と彼女のオフィスについて語る。あの席に座るためには現実を無視しなければない環境で働いていたこと、キャリアのために犯した過ちのの重さを、自分の身内に降りかかることで初めて実感したこと。フェネルのシーンでも、わたしたちが悲劇に加担する可能性を、痛いほどに浮き彫りにしていく。

文章にすると重いテーマを、ガールズムービーのようなヴィヴィッドなトーンと、音楽で彩っていく。この間口の広さも本作の特徴だ。

ただ、もう1つこの映画には大切なルールを感じた。それは、ニーナの悲劇をスクリーンに映さなかったことだ。

映画やドラマのレイプシーンは、物語中の悲劇を描くための一要素として消費され続けてきた傾向にある。被害者立場ではなく、あくまでも他人事としてレイプシーンが作られてきた。

映画/テレビにおける性暴力の描写については、この記事が面白かった。

要約するとこんな感じ。


・『すてきな片思い』のジョン・ヒューズ作品など1980年代のコメディは、現在では“デートレイプ”とされるような性犯罪がユーモアとして描かれている。 ※『すてきな片思い』では、主人公サムが恋をするジェイクは、キャロラインという恋人がいる。しかし、サムの気が自分にあると気がついたジェイクは、サムのことが気になりだす。結果的にサムとジェイクは結ばれるが、その途中で、ジェイクは酔っ払って意識が朦朧としたキャロラインを、車ごと他の男に提供し、「楽しんでおいで」と見送るシーンがある。

現代では、性犯罪を軽々しく描写することはなくなったが、搾取的な方法でレイプを描くことは多々ある。『ゲーム・オブ・スローンズ』ではセックスポジション(性行為をしながら状況説明を行う物語のテクニック)に賛否があり、必要のないセックスシーンがあったとの声も上がった。特に批判があったのが、サディストのラムジーに無理やり嫁がされたサンサへの度重なるレイプシーン。これについては、ラムジーの極悪非道な性格を表すために必要だったと擁護する派閥もある

・また、性暴力の表現に偏りがあり、若くて、白人の女性が被害者であることや、暴力、武器、身体的傷害、または複数の攻撃者が関与していることが多い。基本的に男性視点で描かれており、現実を無視したつくりになっている

・しかし最近では新たな波が来ており、『アンビリーバブル たった1つの真実』や『i may destroy you』など、性的暴行の被害者により寄り添った作りの作品が出てきている。『i may destroy you』では、フィクションとは言え、酔っ払った上襲われても、記憶は残っていた。デマを誘発させるアルコールと記憶の神話を拭い、よりリアリティのある描写がなされている

もちろん『プロミシング・ヤング・ウーマン』は、レイプ被害者のPTSDに完全に配慮した作品かと言われれば、そこまでではないが、マディソンから提出されたビデオの内容は、音声とキャシーの表情のみで表現される。

映像という表現は強い。あの映画の中にニーナのレイプシーンがあるのとないのとでは、印象が変わってくるだろう。声を上げられなかった悲劇は、世界中の多くの女性にとって共通認識だ。あのシーンでのキャリーの表情で、十二分なくらい悪意に満ちた視線と腕をわたしたちは知っている。

なので、最後まで該当シーンを映さない選択をとった本作は個人的にとても嬉しかった。これぞ映さないという美学。悲劇的側面が強すぎてあまり注目していなかった(むしろ凝視できなかった)けれど、映画&ドラマの性描写/性暴力の関係は、再度構築すべきテーマかも


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