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「失われた時を求めて」と「プルーストを読む生活」を読む 116

失われた時を求めて

13巻、61ページまで。13巻の最初は、主人公がコンブレーのサン=ルー、ジルベルト夫婦宅に滞在するところから始まる。サン=ルーは本当に人が変わったのだろうか、今のところはまだはっきりとしない。女好きとされているサン=ルーは、ジルベルトと結婚しても各地で女を侍らせ、ジルベルトは不幸を担う。

主人公とジルベルトは、幼い頃の話をする。あの頃のジルベルトは何を思っていたのか、もう主人公がどうでもよくなった今になって明らかになる。このあたりは3巻を読み返して照らし合わせてみてもいいんじゃないか。アルベルチーヌのときもそうだったけど、この小説では当時謎だったことが、後になってネタばらしのように明かされる。このへんの検証は、この小説の二度目以降の面白い読み方かもしれない。

主人公は子供の頃、ジルベルトの隣を歩く男の子がいてジルベルトをあきらめたことがあった。その男が誰だったか今も気になっている様子で、何度も言及している。ジルベルトに対する恋心みたいなものはもう全然見えないけれど、そういうところはしつこい。

また、アルベルチーヌのことは吹っ切れたと言いつつ、ときどきアルベルチーヌの名前が出てくる。こういうところはなんというか、この物語の信頼性を保ってくれる。あれだけ大々的に語られていた主人公とアルベルチーヌの物語が、後にあっさり吹っ切れて流されたり、アルベルチーヌの名前が思い出されもしなくなったりすると、読んでいる方としては興ざめする。大事な思い出は、作中でも大事に扱ってほしい。それができていると、物語全体に対する信頼につながる。

プルーストを読む生活

622ページまで。著者はフヅクエでカレーを食いながら本を読んでいる。さすがにカレー食いながら本読んだことはない。ながら食いは、テレビを見ながらとかはあるけれど、本を読んだり、食事以外に手を使うような形のながら食いはしない。テーブルマナーとしては最悪ではないだろうか。

僕が見ていてあまり良い気分にならないことの一つに、スマホ飯がある。飯食いながら片手でスマホいじっているあの姿は、あまりにも卑しい。なんだろう、この意識は差別的なのだろうか。あの欲望に忠実な姿は、他人の自慰行為を見せられているような気持ち悪さを感じる。つまりスマホ飯も、自室で一人でやるなら認める。それも僕はやらない。

著者はそのまま閉店過ぎてまでフヅクエで本を読んでいたようだ。この店は確か夜12時閉店だったっけ。何時間いたんだろ。

「プルーストを読む生活」はそのとき著者が読んでいる本の引用ばかりで、半分ぐらいは引用で占められているんじゃないか。さらにその引用文について、前後の文も説明もない。読んでいる側としては、急に放り出されてわけわからない文を断片的に読まされている。そんな引用は、著者のメモ書き、走り書きとしては機能するのかもしれないが、読む方としてはなかなかきついものがある。

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