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【音楽制作note 2022】炭鉱のカナリア ③「ワクチン接種を経て考えたこと」

音楽は未来を伝えるカナリアのようなもの。
言葉にすればより響く。
聴かせるに値する音と言葉を目指します。

3回目の新型コロナウィルスワクチン接種を経て

この記事を公開する6日前に3回目の新型コロナウィルスのワクチン接種をしました。
医療機関関係者ということで、一般に比べたら相当早く接種したので、その所感をお伝えしたいとともに、個人的な未来予想というか、将来の計画みたいなものを留記しておきたいと思い記事にしています。これから接種される方への参考にもなれば幸いです。

今回接種したのはファイザー製で、3回すべて同じ製薬会社のものでした。
1ヶ月前にインフルエンザワクチンも接種したため、思い返して比較すると、打った当初の感覚はコロナウィルスの注射の方がやや痛みが強い。
ですが、泣くほどでもないでしょう。「痛かった」と伝えたくなるという程度です。
私は午後1時に接種し、数時間は変化なし。
夜になって注射した左腕の部分を中心に筋肉痛に近い痛みが拡がってきました。
当日中の体調自体は良くはありませんでしたが、すこぶる悪いというほどでもない。なんとなく全体的に倦怠感があるという感じでした。
睡眠時になって寝転がると左腕が痛く、そちらに寝返りは打てない状態。
終始微弱な気だるさがあり、寝つけたというには微妙な就寝でした。

明けて2日目は仕事が休みだったため、ゆっくりした時間を過ごしましたが、
じわじわと左腕の痛みは解けていったものの、左半身を中心に微妙に倦怠感が残り続け、快方してきたと思えたのは2日目の午後くらい。夜には接種部分を押せば痛いというところまで寛解しました。

個人的には不快にこそなりはしたものの、
2回目の接種時に抱いた感覚に比べたら幾分ましな気がしました。

ご承知のことだと思いますが、体感は個人のものですし、人それぞれに感じ方は千差万別でしょうから一概に「こうなるよ!」とは言えません。
ただ、接種した前と後では変化があることは確かです。
接種した部分を中心にして意識が向いてしまい、
明らかに「かつて」とは違う生活様式を否が応でも考えさせられました。

「かつて」を知る者として

誰もが当事者でありながら答えがない状態でさまよい、蔓延するたびに安心安全が脅かされると思うと憂鬱ではあります。
こうした遍くすべての人類に危機を促してしまった人間ですが、解決への道を模索し続けているのも人間です。
「人間・この劇的なるもの」としか形容し難い挙動をとっていますが、
多くの人々による、知性と実践をもってこの困難の克服を目指しています。
改めて現状を考えると、この世界の困難に、人それぞれの想いをもって立ち向かっていることが窺い知れるとともに、この愛憎に溢れた社会で生かされていることも考えさせられます。
そう翻して考えると、この危機の以前から未来は常に不安と希望があり、人生はいつも不確か、諸行無常。常に「いまここ」にしか自分はいないと気づいていたはずです。
より鮮明に生きる意味を問いかけられているかのようで、この危機は「いまここ」に在る精神と身体の実感を得られる機会であるのかもしれないと考えてしまいました。

これ以降の未来は、
「かつて」を知る者はノスタルジーを抱え、
これから生まれてくるこの世界線しか知らない子どもたちとはOSが違うといわんばかりの思想の隔たりが生じるでしょう。
身体性をものともしない、マトリックス的世界の価値観が構築されるだろう未来のなか、希望と諦観の狭間でもがくだろう自分は、あくまで贈与のうえで成り立っている世界をこの精神と身体で生きていくんだと覚悟しています。

いまここにある命の実感がすべてだと思い至れた機会、不安と希望を与えてくれているこの社会に心からの感謝の念を覚えています。
この思いがなんらかのかたちで、また新たな贈与へと転化できるように努めていきたいと考えています。

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