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【音楽制作note 2022】炭鉱のカナリア ②「楽しい孤独」

音楽は未来を伝えるカナリアのようなもの。
言葉にすればより響く。
聴かせるに値する音と言葉を目指します。

「小林」でもっとも有名な人

私の姓は「小林」でして、日本人の苗字ランキングではどうやら第9位というわりと多数派な苗字です。
その「小林」姓のなかでもっとも有名な人は誰だろう?
と考えたことがあり、思い当たったのが「小林一茶」でした。

同じ長野県出身ということもあり、小林一茶の人となりや作品を知っていくと、意外と自分と符合する点が多く、その生き様に感慨を覚えてしまうところがあります。

そこで2021年11月に出版された
大谷弘至 著 / 楽しい孤独 小林一茶はなぜ辞世の句を詠まなかったのか
を読み解きながら、考えたことを綴ります。

小林 一茶
宝暦13年5月5日(1763年6月15日) - 文政10年11月19日(1828年1月5日)
信濃国柏原(現 長野県上水内郡かみみのちぐん信濃町柏原)出身
本名は小林弥太郎

国語の教科書でも登場する俳人なので、名前は知っているかたも多いのではないでしょうか。
おそらくもっとも有名な句は、
「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」
でしょうか。
「めでたさも 中くらいなり おらが春」
「やれ打つな 蝿が手をすり 足をする」
などもご存知かもしれません。

俳句独特のリズム感の良さに、庶民的で親しみやすい表現が一茶の作品の魅力です。
著書「楽しい孤独」では、小林一茶を「江戸時代の直木賞作家」と表現していて、大衆的エンターテインメントが花開いた時代の有名文芸作家のような存在だったようです。

俳句を日本各地で発展させながら行脚し、俳諧師としては最高峰の存在にまでなった小林一茶ですが、その生涯を追うと人間味と業の深さ、時代や宗教思想などが窺い知れて、それが翻され自分自身を写すものにも見えてきます。

私がもっとも響いた句は、
痩蛙やせがえる まけるな一茶 これあり
有名ですし、語感がよく、自身を奮起させるような句で共感を覚える作品です。
この句が時代を下るにつれ、意味合いは変遷している気がします。
つまり、「勝負」の問題から離れ、「アイデンティティ」の在り方に変わっている。
それが私自身に重なり、この言葉はおそらく生涯に渡り意味合いをもたらし続けるものになる気がしています。

そんな影響与えてやまない小林一茶の生涯におけるエピソードから、いま私が鑑みることを言葉にしてみます。

小林一茶、本名弥太郎は三歳のときに実母を亡くし、その数年後に継母となった「さつ」、そして異母兄弟の「仙六」との折り合いが悪く、十五歳で江戸に奉公に出されます。
当時長男が江戸に奉公というのは稀だったようで、追放に近い意味合いだったようですが、この措置によって各地の文化を吸収し、俳諧への道を歩むことになったと思われるので、運命はわからないものです。
その後、帰省中に父弥五兵衛の病が悪化し、「さつ」と「仙六」に疎まれながらも懸命な看病を行いました。
そして、弥五兵衛が亡くなって以降、骨肉の遺産相続問題が勃発し、数十年に及ぶ権利争い。
五十歳にしてようやく和解し、終の棲家となる柏原の生家に根を下ろします。
翌年に結婚。その後三男一女に恵まれ、俳人宗匠としての地位もあり、もっとも希望に満ちた時期だったといいます。
ですが、時代が時代ゆえに病にかかることが多く、子どもたちは全員早逝。
妻の菊も三十七歳で亡くなってしまいます。
六十一歳で再び孤独になってしまった一茶でしたが、再婚を2回しています。
最後は妻「ヤヲ」と連れ子の「倉吉」と三人暮らしをして、六十五歳で亡くなります。

一茶の生涯の表層をさらってみただけでも、しんどい人生だったのだろうと思わされます。
残された俳句には趣があり、私にさまざまな感慨を与えてくれるもので、
痩蛙やせがえる まけるな一茶 これあり
は、しんどい人生のなかで光を模索する自身と、「一茶」という茶の泡のような存在を示唆する俳号をかけ、「いま」という現在感覚を帯びさせている名文だと感じます。
過去も未来もなく、常に「いま」しかない。
私もこうした共感覚をえられるような作品づくりを心がけています。

一茶は俗物で強欲だったか

そもそもしんどい人生を歩む必要はなかったのではないかと思わされるのが、
継母「さつ」と異母兄弟の「仙六」との軋轢です。
この二人と折り合いよく暮らしていれば問題は発生しなかったでしょう。
ただ、へりくだること、自らを卑下することはできなかった。
そして、この対抗姿勢が俳人の傑物、小林一茶を生み出しました。
若くして信州の北国から江戸へ上らされた結果、大衆的エンタメとして親しまれていた俳句を珍しいバックボーンを持つ独自のセンスで編み出し、大成したわけです。

信州の寒村文化×爛熟期の江戸文化×大量の参加人口
そして反骨精神で繰り出される大量の作品。
ここにはイノベーションを起こす構図があるようにもみえます。

つまり、一茶個人は天才的というより、環境が産み出した作家。
俗物であったというより、大衆の一員。
強欲であったというより、社会の恣意。
弥太郎としては、いわゆる市井の人が当時の「普通」を目指していただけで、
俳人という称号が勝手に聖人だとイメージづけられてしまった結果、一茶の自分に正直に生きる人間らしさに違和感を覚え、嫌悪を抱いてしまった人がいたのかもしれません。

小林一茶から学べること

小林一茶という俳人として大成した結果からみえるのは、
「多くの人の認知を受けること」が大切だと考えさせられます。
五七五のシンプルなルールのなか深い洞察を促すのは、知識や技術を示すことはもちろんですが、さまざまなひとからの解釈が不可欠です。
シンプルだからこそ余計に裾野が拡がり、真逆の意見や対立さえも生み出しかねない解釈の幅を引き出します。

「花の影 寝まじ未来が 恐ろしき」
美しく咲く桜に麗かさを感じながらも死期が近づいているいまの不安を詠んでいる句があります。
どうにもならない死の不安。
未来という言葉は本来明るく希望を感じるもののはずなのに、老齢になった身からすれば絶望的な恐怖の存在に感じてしまったのかもしれません。
浄土真宗の教えを敬虔に学んでも、怖いものは怖いと正直に伝える一茶の姿勢があります。
若者からすれば辛気臭いでしょう。
ただ、どうしても思ってしまうことを正直に詠じたとき、その言葉は常にいまをうつし、人間がもつ普遍の感慨を与えてくれます。
この不安で、悲しくて、寂しい気持ち。されど美しく、いまを生きていることを正直に伝えることを辞めない。
失敗成功以前に、「美学、矜持があること」
これこそ在りたい姿勢です。
その表現としての「真善美」が一茶の句にあるのではないでしょうか。
言葉にするならば、こういったものなのだと私は感じています。

「春立つや 愚の上に 又愚にかへる」
という一茶六十一歳の歳旦吟。
「愚」に徹して生きようという、まさにいまに沁みる名句です。
おためごかすことはなく、正直にいまをうつす。
小林一茶が放つ言葉は、枝葉や幹は違えど同じ人間という根の部分を教えてくれているようで、この極寒極まる時期においては特に身に沁みます。
そんな作品を私も手がけていきたいと思い長文を書いてしまいましたとさ。

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