見出し画像

「ああー、メルマガめんどくせえ!」という日に思うこと

「弱みをさらけ出すと、関係が深くなる」。

そんな話を、何かの記事を見ました。

なので、その話にかこつけて、今日は私の「弱み」をさらけ出してみたいと思います。というか、弱みでもなんでもないのですが。

ただ「『ああ、メルマガめんどくせえ!』という日に思うこと」について書いてみたいと思います。いや、今日がそんな日だから、ただ書きたいだけです。すみません。

***

さて、今日でメルマガ3860号です。

1年前から「note」に書く→メルマガで配信に切り替えているので、通算3860号書いています。

こんなに毎日発信を続けていても、「マジめんどい」とよく思うわけです(苦笑)。なので、率直な思いを書いてみたいと思います。

ご興味がある方は、横目で見ていただければと幸いです。(そしてごめんなさい、興味がない方は、ぜひスルーいただければ幸いです)

それでは、まいりましょう。

***

たまに、発作のように、こう叫びたくなります。

「メルマガ書きたくない、書きたくない!
 ああー、めんどうくせえ!!!」

・・・と。

3800号毎日書いているけど、好きで書いているわけではありません。

かっこよく言えば「習慣」といえるのかもですが、体感覚は「義務(must)」だからやっている感じ。やらないという選択肢がないからやっているだけ。

心が変われば行動が変わる
行動が変われば習慣が変わる
習慣が変われば人格が変わる
人格が変われば運命が変わる

なんて名言も、「・・・だから何?」と言いたくなります。

なんとなく空虚に感じてしまいます。
心がすさんでいるのでしょうか。

だって、疲れた日、ゆっくりしたい日もあります。
だって、映画をダラダラみたい日もあります。
スーパー銭湯で漫画をずっと読んでたい日もあります。

メルマガを始める前までは、そんな日もありました。
でも、メルマガを始めた10年前にそれは終わりました。

それに憧れても、「メルマガ(note)」の習慣によって、常に「何かを背負っている感」が存在し続けることになりました。

これは正直、苦行感があるのです。

***

「じゃあ、ウダウダいってないでやめればいいじゃん」
と言われそうですが、それはそれで怖い。

なぜなら、一度やめたら、もう戻れなくなるから。
一度やめたら、毎日書く日々は、ハードルが高すぎるから。

「しょうもないことを今日も書いてしまった」と思っても、
やめたらゼロになってしまう恐怖があるのです。

そして、私の周りでも、メルマガを毎日やっていて、1日やめた人は、もう戻ってくる人はいませんでした。それくらい、ある意味、意志に抗う制約で自分を駆動させているのだと思います。

***

かつ、もう一つ良くも悪くも、厄介なことがあります。それが、

「『より良く』を求めてしまうこと」

です。

思えば、数年前は、もっとラクでした。
大学院に入る前は、自分の思ったことをつらつらと書いていくことが中心でした。

「自分が、それを本当に思っているかどうか」
「自分が、心から言いたいことか」

そんな思いを中心に書いていたので、そこには生っぽさがあった気もします。それが好きだと思っていただける方も少なくなかった気もします。

しかし今は、「論文をまとめる」という選択肢が増えました。
そうするとエビデンスや、言葉の正確さも大事にしたいと思うようになりました。
論文を読み解く、インプットの時間が増え、そしてnoteというインターフェースから、文章量もより多く書けるようになりました。

なので、メルマガ(note)を書く負荷は段々と高くなっていきました。

そうして、「メルマガ」に対する「ああーめんどうくせえ!感」が、突如ウルトラマンのように巨大化するときが、以前より増えた気がしするのです。

***

しかし、日々の書く大変さと引き換えに、
多くのギフトも与えてくれました。

書くことを繰り返すのは、とても大変。

でも、積み重ねた足跡を見返すと、書いた記憶はなくなっても、書いた記録は残っていて、それを思い出すことで、自分の外部記憶装置は育っていることに気づきます。

すると、自分のごとき凡庸な人間にでも、ちょっとだけ前進できているような気もするのです。そしてそれを見てくれている方から、新しい機会もいただくことも増えました。

(大学院の特別講座で『論文の読み方講座』を講演させていただいたり、大学のゼミ授業で『研修ファシリテーション勉強会』としてレクチャーさせていただいたり、ありがたいことしかありません)

頭もさほどよくない自分が、少なからず今のような仕事ができているのは、メルマガのおかげ。

本当に、自分の遅筆と、繰り返しても洗練されない思考に辟易することもあります。それでも、相応の差し出すものを10年繰り返したら、いくばくかの厚みにはなったと感じます。

***

そして、「ああー、メルマガめんどくせえ!」と思いつつ、書きながら思うこと。一つのルールがあるならば、

「人生は蓄積である」。

ということです。

論文や書籍の知識をストックすれば、それはその分、蓄積されます。
それは小さな一歩で、忘れることもあるけれど、積み上がるのです。

一方、今日のように、自分の想いを言葉にすると、それは「思い出の
蓄積」になるのでしょう。

どちらがよいかは、わかりません。

研究としては、蓄えた知識に意味があると思います。
なので、論文や著書のまとめこそ意味があるとも言えそうです。

しかし、そうした知識よりも自分の感情の発露と、
その足跡を刻むことを大事にするならば、それも価値と言えそうです。

どちらにも意味があるとも思えるし、
どちらにも意味はないとも思えます。
人生は儚きものです。

ただ、こうした未熟な自分の思いも含めて、
自らを晒しながら、言葉を紡ぐことで、
何かを、誰かに共感し合うことができたら、
とても嬉しいことだな、そんなことを思った次第です。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?