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アフリカ西海岸5か国

(7番) 2016年 4月
リベリア、シエラレオネ、ギニア、セネガル、ギニアビサウ、ガンビアへ行ってきました。
ご存じのようにリベリアとシエラレオネは「エボラ出血熱」の流行により暫く行けませんでしたが、満を持して解禁になったのです。
セネガルは2013年に行った事があるのですが他は初めてです。そして国盗りも現在行くことができる国としては最後です。参加者は男性4名、女性3名の7名でした。

4月18日
10:35発のJALにてパリへ。16:10着。
19:50発のモロッコ航空でカサブランカへ行こうとしてシャルル・ドゴール空港内でチェックインをしようとしたら、「Oh, my God!!!」私のe-ticketのみ翌日の日付になっているではありませんか。
こんな事があるなんて、旅行会社もとんでもないミスをしでかしたものです。仕方がないので、一人で空港内のホテルに一泊して翌日行くことに。
既にスーツケースを預けていたので、それを手元に戻すために更に3時間も待たされました。イライラしながらもどんどん時間が過ぎていったもののやっと出てきました。
これから荷物を持ってホテルを探すのは携帯も持っていないし・・・で目に入ってきたのはあの船の形をしたシェラトンだけでした。
夕食を食べたのは23時を回っていました。相当ぐったりでした。

4月19日
ホテルをチェックアウトして空港に戻り、何か所か検問のようなところを通過します。
一人の係官の人がe-ticketを見ながら、笑顔で「本当にモンロビアへ行くの?」と聞いてきました。
17:50までモロッコ航空のチェックイン カウンターが開くまでズ~ッと椅子に座って待ち続けました。パリ市内に出て観光でもすれば良かったのでしょうが、何かあって戻ってこられなくなったらと心配だったのです。
一人の男性がカートを押しながら、ぐるぐると何度も私の前を通り過ぎていくので、ちょっと訝しかったです。「テロか何かだったら」とも思ったけど思い過ごしだったようで一安心。
長~い、長~い一日を空港で過ごし、定刻通りに飛行機は飛びました。

4月20日
早朝モンロビアに到着し、リベリアの入国手続きもスムースに済ませ、外に出ると添乗員さんが待っていてくれました。ホテルに着いたのは5時45分ごろでした。
相部屋を取っていたので、ドンドンとドアを叩くのですが、なかなか起きてきません。
やっと開けてくれたと思ったら、「何、こんなに早くに」と文句たらたらだし、怒りで顔はブスッとしていました。この対応には正直ガッカリしてしまいました。
普通、「大変だったでしょう。無事でよかった」とか言いそうなものですが・・・

この相部屋の話ではそれこそ一冊本がかけそうなくらいネタ話があって、8割の人が我が儘です。いい人に当たる確率は残りの2割くらいです。一番困るのは認知症ぎみの人です。それは病気なので仕方がないけど、ただでさえ旅行中は気が張っていて心身ともに疲れるのに、余計に疲れます。
全く知らない人と同じ部屋になる事を選ぶのは、海外は一人部屋料金が高いからです。
旅行中くらいお互いに気を使って楽しく過ごしたいものです。

話を元に戻して、シャワーを浴びた後、昨日できなかった観光に連れて行ってくれました。
リベリアは欧米の植民地になったことがないので、アフリカらしさが残っています。
プロヴィデンス島は1818年にアメリカ政府が解放奴隷をアフリカへ帰還させることを決定し上陸させた場所です。
その後、アメリカ人の総督が来て、入植が広がったが1847年に独立しました。
センティニアル パビリオンは大統領の就任式など、国の大切なイベントを行う際に使用される建物です。
因みにモンロビアとはアメリカ大統領のモンローから名づけられました。
ここはコーヒーとダイアモンドを産出します。

10時半に他の皆さんとも合流し空港へ。
途中、ハーベルゴム農園へ。1926年、リベリア政府より借り受けたアメリカのFirestone社によって建設されました。ブリジストンの原材料の施設があり、近年Firestone社を買収したようです。
昼食は空港にてハンバーガーをいただきました。

15:10発のケニア航空にて、シエラレオネのルンギへ。
わずか50分で到着し、その後シャトルバスで舟渡し場へ。高速船にてシエラレオネの首都であるフリータウンへ。

4月21日
フリータウンの市内観光へ出発。ここは坂の町です。道路は町の中心部以外は舗装されている部分があまりなくて、丁度雨上がりだったのか黄土色の泥そのままの道です。
こういう景色をTIA(This is Africa)と言うのだそうです。アフリカっぽい・・・
平和記念公園(アミスタッド号反乱を起こしたシンケ・ピエの壁画がある)や道路際に立っているコットンツリー(樹齢500年でなかなかの大木)を見た後、町の眺望を見るためレストピークへ。どうしても坂道が登り切れず、遂に故障してしまったので代替車に乗り換えました。
午後は自由行動。

4月22日
次のギニアへ向かうために8時ごろホテルを出発。
お昼ごろ、シエラレオネを出国し、無事、入国手続きを終えてギニアの首都であるコナクリのホテルへ。
ホテル着は19:45頃でした。
コナクリは大西洋岸カムール半島先端のトンボ島にある港湾都市で本土とは埋め立て道路で繋がっています。
ここは90%がイスラム教徒です。ボーキサイトや鉄鉱などを産出します。
社会主義国なので北朝鮮の大使館もあります。
フランスの植民地であったが、1958年に独立。初代大統領が今後は自分たちだけで統治をすると言い放ったために、フランスは重要書類や地図までも焼き捨てて出て行ったそうです。
そこに立ち向かった日本人達がいました。1977年から測量から開始し、4年の月日をかけてギニアの地図を完成させました。ここにも誇りに思う日本人達が足跡を残していました。

ギニアは大国なので、人も多くコナクリに入る郊外の町は夕方という事もあってか、人でごった返していました。ホテルもモダンが感じで洒落ています。
遅い夕食を食べていると隣のテーブルに3人のJICAの男性たちが。1人は水産関係だそうです。

4月23日
コナクリ市内観光。フィッシュマーケット、19世紀の建築の教会、18世紀建築のグランド モスクなど。
その後17:50発のアスキー航空にてダカールへ向かうためギニアの空港へ。
ギニアは悪名高い賄賂国家です。
待ち時間の間にトイレに行ったら、「Money」と言って3人の男性の手が目の前にニューと伸びてきました。「空港税に含まれているでしょッ!」と言うと「それとこれは違うんだ」と言う。
無視して個室に入ると外から「カチャッ」と鍵をかける音が・・・用を済ませて外へ出ようとすると開かない。「開けてくれ~」と言うと開いたが、すぐにお金を要求してくる。
言葉が分からないふりをしていたら(遅すぎるか)、他にも鴨がネギをしょって入ってきた。その隙を見て逃げ出しました。

ギニアからギニアビサウへ行くのに前回は陸路で向かったそうです。
しかし、国境まで行くのに、25回も車を止められて賄賂を要求されたようで、これではたまらんという事で空の便に変更したらしいのです。
「賄賂街道」という異名までつけられています。

機材の故障でフライトが遅延することになり、一端ホテルに戻りました。結局、夕食の時間になり、近くの中華料理屋さんでギニア風四川料理をいただきました。
22時ごろ、再度空港へ。入り口ではしょうもない理由でガードマンとガイドが激しい口喧嘩を始め、辺りは騒然となりました。

出国の荷物検査の際にも財布を指さして、「1ドルくれ」と言う。またしても言葉が分からないふりをしたら、通してくれましたが。こんなのはまだいい方でこういう事はアフリカでは多く経験します。
アンゴラでは出国の際、順番に一人一人が個室に連れて行かれて、入国時に申告した持ち金と出国の際に増えていないか確認をするのです。そうです。違法就労していないかチェックをするのです。数える時に抜かれないかガン見をするようにしています。最後にお決まりの「ちょうだい」が始まります。この時は強い口調で言ってきましたが、断固として渡しませんでした。

24時ごろやっと搭乗が始まり、24時半出発し、1:30頃ダカールに到着。セネガルの空港ホテルに着いたのは2時半でした。

4月24日
10時ごろ、12:00発のセネガル航空にて次のギニアビサウへ向かうために空港へ。
空港に着くと掲示板に我々の乗る便が表示されていなくて、添乗員さんもやけにあたふたと動き回っている。他の皆さんはのんびりと椅子に座ってらしたので、「我々の便があの掲示板にないんですけど」と言いに行ったら、添乗員さんが戻ってきて説明が。
な、な何と航空会社が倒産していたのが判明!
添乗員さんも手元資金の持ち合わせが少なくて、皆さんに強力願えませんかと言われたけど、我々も持っているわけがなく・・・結局、日本からものすごく手数料の高い送金方法で送ってもらい、チャーター機を用意してもらいました。
ここからセネガルの南部にあるジガンショールまで飛びました。途中で昼食を食べて国境まで。
ギニアビサウの大使館へ着いたのが、17:10頃。その後、ビュンビュン飛ばして首都であるビサウへ。
20:00頃、真っ暗なビサウへ到着し、建国の父であるカブラルの銅像を見学し、独立広場へ。
前日は3時間しか寝てないのに、翌朝のモーニングコールは1:00だと。結局、この日も2時間しか睡眠時間が取れずに、だんだん頭がボーツとしてきました。
それを察したのかどうかわからないけど、「迷惑をかけたので、一人部屋を取りました」と添乗員さんから言われました。恩着せがましい言い方だったし、何のお詫びにもなっていなくて一番得をしたのはもう一人の人だというのに気が付いていないです。

4月25日
2時半ホテル出発で次のガンビアへ向かうため空港へ。
4時半発のモロッコ航空に乗ります。
他の皆さんは帰国の途へつくのでそのままカサブランカまで行き、ガンビアの首都であるバンジュルでは私一人が降りました。たったの40分のフライト時間でしたが、当然、爆睡していました。
5:10着で、入国の際、個室に連れていかれて10名ほどの係官から質問攻めでした。
悪印象を与えまいと、この不愛想な人が一生懸命に笑顔で通しました。出口でガイドさんと合流し、そのままホテルで少し休憩。

9:00発の船で世界遺産であるクンタキンテ島へ。
船の中では又しても爆睡でした。お客さんはやはりいろんな国から来た人達でした。
正式名はジェームス島と言い、ガンビア川に浮かぶ島で河口から30km上流にあります。
アレックス・へイリーの小説「ルーツ」とそのドラマによって奴隷貿易が広く知られるようになりました。ヘイリーの先祖がここの出身だとか。
クンタキンテの生家はジュフレの村にあって一族の末裔が暮らしています。現在は8代目で先代の7代目は109歳まで生きた人らしいです。

ガンビアは英国の植民地・保護領から1965年に独立しました。
バンジュルはガンビア川河口のセントマリー島にある港湾都市で主に落花生を輸出しています。
ガンビアは政府の方針でプラスチックは一切使用してはいけないそうです。
そう言えば、アフリカのどこかの国へ行った際、着陸する飛行機の上から色とりどりの綺麗な花が咲いているのが見えました。地上へ降りてみるとそれは何と全部プラスチックのごみでした。

4月26日
バンジュル市内観光。
とは言っても私は写真を撮らないので予定していた場所を2か所ほど、スキップしてもらいました。一か所だけ、「カッチガリー クロコダイル センター」は生きたワニに触ることができる施設です。背中に触ってみたけど、意外と柔らかくてびっくりです。

午後は自由行動で、近くの浜辺を散歩していたら、若者が声をかけてきて、「今夜、あちらでパーティがあるけど、参加しないか」と聞いてきました。丁寧にお断りしました。
すると今度はメルアドを教えてほしいと言う。もちろんあるのだけど「持っていない」と言うと「あなたの友達でもいい」と。「私の友達は80代や90代の人が多いがそれでもいいか」と煙に巻いてやりました。
19:20頃、日没を迎えました。大西洋にとても美しい太陽が沈んでいきました。
「これで、現在行けるところは全部行けた」と心の中ですべてに感謝をしました。

4月27日
6:05のモロッコ航空にてカサブランカへ向かうために3:30ホテルを出発。
空港には中国人の方達がたくさんいました。
チェックインする際、羽田と言っているのに「カナダ?」とか言ってくるし、日本の地名は知らないだろうなと改めて思いました。
入国の際、個室へ連れて行ってくれた係官の人も「また会ったね」と挨拶をしてくれました。
乗客が全員集まったからなのか、定刻よりも30分早く出発して無事カサブランカへ到着。
12:35発のモロッコ航空にてパリへ。16:40パリに到着。
待合室で待っていると搭乗予定のJALから呼び出しがありました。
「もう、最後になってまたトラブルかい、いい加減にしてもらいたい」と心の中で呟きながらカウンターへ行くと、「お客様のスーツケースは無事積み込みをさせて頂きましたので、ご安心ください」と。本当は怪しい荷物ではないかどうか確認をしたかったのであろう。
物も言いようとはこのことである。JALは時々とんでもないミスをやらかしたり、エラそうなCAさんや知識不足の地上スタッフに会ったりするが、この時ばかりは株をあげましたね。チクリ!
20:30発のJALで羽田へ。

4月28日
15時半羽田着。
空港の出口で会ったこともない旅行会社の社長さんが待っておられました。
今回の件を謝罪されましたが、そう簡単には許せる気持ちにはなれません。
ただ、一番大変だったのは添乗員さんで、ほとんど寝る時間がなかったのではないかと思われます。いつも一癖も二癖もある我々の面倒を見て頂いて心から感謝をしております。

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