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マリ

(20番)    1996年  2月
マリへ行ってきました。自分たちの祖先は宇宙から来たと信じているドゴン族に会ってみたかったのとジェンネの泥モスクが見てみたかったのです。
参加者は全員で17名でした。

2月12日
09:05 成田発 英国航空
16:30 ロンドン発
21:00 ジブラルタル発
21:00 カサブランカ着(時差マイナス1時間)

モロッコの入国にはものすごい時間を要しました。何故ならば、係官たちが全くやる気がないのです。それぞれの審査ボックスの前にはずらりと人々が並んでいるにも拘らず、平気で自分の席を離れたり、同僚と話し込んだりと酷いものでした。
こちとら、飛行機に乗りっぱなしで延々とヨーロッパ経由でアフリカくんだりまで来てクタクタなのですよ。ホテルに着いたらバタンキューでした。

モロッコは、たまにきな臭い情報が入ってきたりします。
実は友人が危険な目にあったことがあるのです。いつの事かは不明ですが、有名な観光地であるマラケシュのジャマ・エル・フナ広場をのほほんと歩いていたら、いきなり銃撃戦が始まり「自分はここで死ぬんだ」と覚悟をしたと言っていました。もちろん、這う這うの体で逃げて大丈夫だったようですが。

モロッコと言えば思い出すことがあります。
良い経験ではありませんが、外国人に対して良い印象を持ってもらうようにした方がずっとお国のためになるのではないかと思うので敢して記させていただきます。

1988年に初めてモロッコを訪問した際、フェズという迷路で有名な市街を団体で歩いていた時の事です。老齢のガイドさんに若い男性数人が「誰の許可を得て案内をしているんだ!」と因縁をつけてきました。挙句の果てには暴力まで振るい、バチーンとガイドさんは顔を殴られて出血してしまいました。人が殴り合いの喧嘩をしているのを見たのは後にも先にもこれが初めてです。唖然としている我々に対しては英語で「あなた達には関係のない事ですから」と愛想笑いでのたまうのでした。もちろん、事の経緯は後から添乗員さんから聞きました。
これでは周りの人達にモロッコ観光を勧める気持ちにはなれませんね。

又しても前置きが長くなってしまいました。

2月13日

午前はカサブランカの市内観光

市庁舎 →裁判所 →王宮(モハメドV世)→メディナ →国連広場(モハメドV世広場で水売り達がたくさんいた)→ハッサンII世モスク(1993年に竣工)

14:10 カサブランカ発 モロッコ航空
17:40 マリの首都であるバマコ着
空の上からはオレンジ色のサハラ砂漠がよく見えました。

マリの歴史上で一番有名な皇帝は10代のマンサ・ムーサ(1312~1337)です。
1324年に彼は豪華絢爛な巡礼を行い、世界中にマリの名を知らしめました。500人の従者を従えてそれぞれが3キロの金塊を抱えていました。
100頭のラクダの背なかにはそれぞれ140キロの金塊が積まれていました。途中のカイロで大量の金を喜捨したのです。

マリは1960年にフランスから独立しました。現在は世界の最貧国のひとつです。人口約2千万人弱、主産業は金と綿花の輸出、宗教はイスラム教が80%。
第一次産業従事者が80%と高く、海外へ出稼ぎに出る人が多いので、「バルカン半島」の時に書いた通り、ガイドさんが「リビアのカダフィ大佐は我々マリの国民に対して仕事を与えてくれるので大好きだ」と言ったのです。
その時までカダフィ大佐に対する自分の中の「アラブの狂犬」というレッテルは日本や海外のマスコミが一方的に植え付けてくる情報だけを鵜呑みにしていたことに気が付き「ハッ」としました。

隣国のコートジボワールとブルキナファソへ行った時のガイドさんとドライバーさんもマリ人でした。
因みにマリへの観光客は年間で世界中から3000人程度だそうです。

2月14日
終日、バマコの市内観光
バマコとは現地の言葉で「ワニが生息する」という意味だそうです。
ポワン・ジェの丘(街が一望できたが、高い建物は3つしかない。大統領官邸、国立病院と我々の宿泊したホテル。ここにはマラリアの薬となるキニーネの木が植えられていた)
丘から下ってきて →国立博物館 →グランド・マルシェ →小学校前(たまたまお昼時間で子供たちが出てきてあっという間に囲まれてしまった)

元気のいい子供たち
ここまで歓迎してくれると嬉しいものだ

昼食は市内のベトナム人が経営するレストランで
メニューはワンタンスープ、肉入り野菜炒め、チャーハンと果物
ここには、ベトナムの1弦琴が置いてあり、ガイドさんから日本の琴は弦が何本あるかと聞かれて困りました。確か13本だったようなと思ったけど、他の人に確認をして答えました。

午後は郊外のサナン・コロンバ村を訪問
バンバラ族の人達がイスラム教に改宗することを嫌ってここに住むことになったそうです。
彼らの主な収入源は村の周囲に自生しているシアの木から作るシア・バターです。泥で作られた家が建てられていて、壁に囲まれています。中に入ると四角い形が男性の家で、丸い形が女性の家。三角錐の帽子のような形の家が食糧庫。
ここでも子供たちがぞろぞろと付いてきます。遠くの方から可愛い声で歌声が聞こえてきて、何かお遊びのような、ままごとのようなことをしていました。我々のことを待っていた感がありありです。
皆で写真を撮るとお金を要求してきました。誰も払わないでいるとガイドさんに要求してきて、ガイドさんも無視をすると泣き出してしまい、結局彼がまとめて払っていました。私は最初からピンときていたので、写真は撮りませんでした。

ホテルに戻ると物売りがいて、宝石箱のような木箱を売りつけてきました。とても細かく彫ってあって模様が綺麗でしたが、いかんせん、相手はフランス語しかしゃべらず、こちらはフランス語は分からず、一応お断りしてエレベーターに乗ると何と一緒に乗り込んできました。私には3ドルと聞こえていたのですが、「さん」は日本語なのでおかしいと思いつつも「3dollars?」と聞くと「No」。だよね。それでもいくらかわからないものを買う訳にはいかずに断り続けると諦めたようです。
後で調べてみると100ドルでした。ワオ!

2月15日
ホテルを5時半出発の予定だったが、バスが来ず、ガイドさんが急遽他の車を手配しました。来なかったドライバーの青年は後でこっぴどく叱られました。
08:00 発 マリ航空の小型航空機にてモプティへ
10:00 発 2台のミニバスに分乗してサンガへ

13時半ごろホテル(掘っ立て小屋)着
部屋に入ってまあ、ビックリ!
床はコンクリートでそこには大量の血が流れ出ているではないですか。「すわ!殺人事件でもあったか!」と思い、すぐに人を呼びに行きました。係の人は見ても驚くこともなく、水で流してお掃除をしてくれましたが。
もう、この頃には軽い頭痛がしてきて熱中症の症状が出てきていたので、そう思ってしまったのかもしれません。それにしても客が入る前にきちんとお掃除くらいしておいてくれないと困るだに・・・
部屋にはベッドとシャワーがあるだけでトイレは共同でした。もちろん、お湯なんて出ません。入口のドアも鉄板で建付けが悪かったです。電気がつくのは19時から23時の間だけ。

少し休憩をして、自由時間だったので村の散策に出かけました。ホテルの後ろ側には学校があって持ってきた今年のカレンダーや手帳を先生達に渡しておきました。生徒たちも教室から出てきたのでカメラを向けるとジェスチャーで拒否をされてしまいました。
あとは村をぶらぶらして、ドゴン族が使っている「はしご」を見つけて上ってみたりしました。この「はしご」が日本人のマニアの間で人気があって、ほしい人が結構いるらしいです。え?こんな物が・・・

17時にはドゴン族の「仮面の踊り」が太鼓の音で始まりました。これは通常乾季の終わりに行われる宗教行事ですが、観光客が来ると見せてくれます。もちろん、有料で彼らの貴重な現金収入になるのです。
広場で20人ほどの鹿、バッファロー、猿、鷹、ウサギ、そして「カナガ」というドゴン族の十字架などの仮面をつけた男性が音楽に合わせて踊り狂います。本当に何かに取りつかれた様に。特に歌っている長老らしき男性は目がどっかに行っていました。
これぞ、精霊信仰であるアミニズムの象徴でしょう。
これは死者の魂を鎮めるためのダンスだとか。
衣装には宝貝がたくさんくっついていました。楽器はおもに太鼓と金属製の鐘です。

ミュージシャンと長老
仮面のダンス


仮面のダンス


仮面のダンス
仮面のダンス

ドゴン族は宇宙に関する知識をたくさん持っています。その中でもシリウス神話というのがあります。遠い昔、シリウス星から「ノンモ」という宇宙人が地球へやってきて社会や文明を構築したとか。興味深いのはシリウスの周囲に「ポ・トロ」という星が回っていてその存在をドゴン族は大昔から知っていたらしい。というのも望遠鏡を使っても肉眼では到底見ることができない星だからだそうです。
いやはや、同じ地球に住んでいてこんな民族がいるのが分かって感激しまくりです。
で、夢中になってカメラで撮っていると「そこ、邪魔だからどけ」と言われてしまいました。

2月16日
バンディアガラの断崖(世界遺産)というドゴン族の人々が住む部落を訪問。
掘っ立て小屋から歩いて30分ほどの場所に平らな岩があります。そのまま歩いていると端まで到達してそこからは視界が広がり、真下には何も見えずに、よくこんな場所を見つけたなと思います。ドゴン族の人達はイスラム教に改宗させられる事を嫌ってこの下に隠れ住むようになったとか。当然彼らは「ノンモ」という神を信仰しています。

バンディアガラの断崖

下へ降りるには道らしきものはないので、岩の裂け目を急降下して降りていきます。ちょっと危険でした。泥で作られた住居と三角の藁(キビかアワ)を被った倉庫などが所狭しと建てられています。ここも男性と女性の家は別々に分かれています。

ドゴン族の村
ドゴン族の村
ドゴン族の村
ドゴン族の十字架

面白いのは「トグナ」と呼ばれる集会所で、天井が低く建てられています。理由は話し合いが白熱して立ち上がって頭をぶつけて我に返るようにしてあるのだとか。
ドゴン族の人達は争いを好まず、話し合いで折をつけるのがルールだそうです
→うーむ、これは誰かに聞かせてやりたいものです。これは今書きました。

14時ごろ、ミニバスでモプティに戻ります。
途中、バンジャガラというフラニ族が暮らす町に立ち寄ります。
ここには昔フラニ族の王宮があったのだが、今は門だけが残っているような状態でした。
丁度、金曜市場が開かれていて、紫色に唇を染めている女性たちが買い手も売り手も丁々発止の勢いでやり取りをしていました。女性たちが着ている服は原色が多くてカラフルだし、耳、首や手首には24金と思われるアクセサリーをさり気なく飾っていておしゃれです。
写真はもう論外と言った感じで拒否されます。

フラニ族

16時ごろ、アフリカのベニスと称されるニジェール河畔の交易の街モプティ着。ニジェール川の支流であるバニ川では川べりで洗濯物を干している人達やいかにも規定人数超過だろうと思われる渡し船が戻ってくる様子などが見られました。

積載人員オーバー?

2月17日
10:00 発 マリ航空の小型航空機にてトンブクトゥ(世界遺産)へ。
11:00 トンブクトゥ着。

今から数年後には街は砂で埋もれてしまうのではないかと心配されていると聞いていたが、その通りでした。まず、空港内に砂が積もっていました。ホテルまでの道中にはよく見ると家と道路の間に砂が積もってくっつきそうになっている光景ばかりで、それはあたかも雪国の景色のようでした。
あいや~、ホテルの目の前で我々の車が砂にめり込んで動けなくなってしまいました。
空もどんよりとしており、砂が舞っているのがよく分かります。
これはサハラ砂漠にほど近いために砂の浸食が近年酷くなっているためだとか。
昼食時に出てきたパンをかじると「ガジッ、ガジッ!」と音がします。
恐怖を感じる位食べられたものではありませんでした。砂交じりのパンなんて・・・歯が壊れる~

午後は市内観光へ出発。
ここは砂漠の民と呼ばれるトゥアレグ族が主に金と岩塩の交易として地中海地方と大西洋岸を結ぶための拠点とした場所です。
現在でも「黄金郷」として栄えた当時の街並みが残っています。

ここのガイドさんはモハメド・アリさんといい、森本哲郎氏がマリに来ると必ずガイドを務めるのだそうです。一緒に写真を撮ってもらいましたが、流石に世界一美しい民族と言われるだけあってカッコいいです。

ジンガリベリ・モスク(14世紀建立、泥と藁と木材で建築されている。最大主要人数は2000人)→サン・コーレ・モスク(14世紀建立でマドラサがある)→ロシディ・ヤヒヤ寺院(1939年にフランス人が建築をしたマドラサ)→マルシェ

路上で、共同のパン焼き窯があって丁度少女がパンを焼いていました。この写真を見ると皆が異口同音に「爆発でもしたのか」と聞いてきますが、違いますよ。もう、こんな反応が来るとは夢にも思いませんでした。

パンを焼いていた女の子

夕暮れ時にはラクダに乗って砂漠を散歩しました。
30分ほど行くとトアレグ族のテントがあってお店を開いていました。絨毯の上に座って「お茶でもどうぞ」と言われたが、丁寧にお断りを。何故なら、一歩入った途端にダニに食われるのがおちなので。

トアレグ族

2月18日
朝の空港でベルギー人達の団体と出会いました。「ベルギーに行った事のある人?」と聞かれて半分以上の人が行った事があると答えていました。その人は驚くとともに嬉しそうでした。他にも色々と質問をしたりして会話が弾みました。
が、搭乗時間になって、何とオーバーブッキングが判明し、一人乗れない可能性が出てきたのです。
お互いにツアー同士なので、置いていくわけにはいかず、どうするのかと思いきや、一人の膝の上にもう一人が座るという何とも荒行なことに。その被害を被った日本人女性は途中で耐えられなくなったのか、膝から降りて下に座り込んでいました。何ともまあ、信じられない光景でした。
ロシアのアエロフロート機がやはり一人オーバーブッキングをして墜落をしたというニュースを聞いたことがあったのでハラハラドキドキしっぱなしでした。
08:00 トンブクトゥ発 マリ航空
09:00 モプティ着
市内観光へ
トグル・モスク(意外とりっぱ) →マルシェ(魚の燻製など匂いが強烈)→ニジェール川の遊覧(ピロッグという細身の船。途中でニジェール川とバニ川の中州に上陸してボゾ族の村を訪問。彼らは漁師を生業としている。夕飯の支度をしていた。中州の先の方は牧場になっている)
夕焼けがとても綺麗でした。

ピロッグ
ナマズの燻製

2月19日
7時発でもう一つの隊商都市であるジェンネ(世界遺産)へ
9時ごろ到着
本日は月曜市が開かれるためか、頭に荷物を載せた女性たちがそちらへ向かって歩いていました。有名なグランド・モスク前のどでか~い広場にはずらりと品物が並べられていました。買い物客ももちろんたくさんいて、混沌としていました。

この光景を見たとき、思わず頂き!と

別名、泥のモスクと言われるグランド・モスクは泥の壁がニョキニョキと立っているように見えて迫力があり、その大きさに圧倒されます。ニジェール川の泥で作った日干し煉瓦の上に泥を塗って建てられています。中には畳一畳分の太さの柱が100本立っているとか。
お城と言っても過言ではないほどで、来る前に見た写真で「何と神秘的な建物だろう」と思いましたが、現物を見て更にそれを実感しました。
不思議なのは窓がどこにもない事。スーダン様式だそうです。材木がブチブチと泥の壁から出てきていますが、建築時の足場として使用して、その後は飾りとなるのだそうです。
もちろん、イスラム教徒以外は中には入れません。いやー、ここは是非共入ってみたかったです。

ジェンネのモスク
モスク前の月曜市


可愛い女の子

16時ごろからセグーに向かいます。
途中に未だにイスラム教に改宗せず、アニミズムに生きるボゴ族のテレンゴ村を訪問。
村の中ほどには土まんじゅうがあって、神聖な儀式が行われる場所だそう。動物の頭蓋骨が何個か並べられていました。

再出発しようとした途端にバスが故障してしまいました。
ドライバーとアシスタントが懸命に修理をしたが、治ったのは1時間半後でした。
その間、月曜市からの帰りであろうと思われる人々が馬車や車、自転車などでドンドン追い抜いていきます。
やっと動き始めると辺りはすっかり暗くなっており、周囲に明かりがないので、漆黒の闇の中をボツボツと走りました。無事にたどり着けるのだろうかと本当に不安で仕方がありませんでした。
ホテルに到着したのは21時半を回っていました。

2月20日
セグーの市内観光へ
フランス統治時代の官僚たちの家が並ぶ地域 →セグコロ村(バンバラ王国の首都だった。小さなモスクと国王の母のお墓があった)

午後はサバンナ地帯を走り、バマコへ戻ります。
しかし、昨日息絶え絶えだったバスはもう限界のようで、ガイドさんは他の車の調達に行ってしまいました。15時ごろ、やっと代替車が到着したものの、一見して「え?」と勘繰るほどのポンコツでした。これもダメでしょうね。大当たり!
窓は開かずに車内は蒸し風呂状態で走り出しましたが、すぐに故障してしまいました。
Tシャツの後ろのデザイン画がベロッと音を立てて剝がれて、座席の背もたれに転写?されてしまい、何が起きたんだろう!と。いかに暑いかが分かると思います。実に恐ろしや・・・
1時間おきに「ポシュッ ポシュッ」と音がすると止まるという規則が分かってきて、それが何度繰り返しただろうか。辺りは又しても漆黒の闇である。遠~くの方で一点の光がずっと継続して見えるようになり、それが段々と近づいてきてバマコだとわかると安堵して拍手がわきました。
今日は昨日よりも酷い車の移動日となり、夕食も深夜となりました。
どっと疲れました。

2月21日
帰国の途へ
09:00 バマコ発 モロッコ航空
12:20 カサブランカ着
機内ではカサブランカの気温は18度と言っていたが、もっと寒く感じます。

ホテルにチェックインして午後は市内の散策へ。

「カサブランカ」という映画にちなんで「Casa blanca」というお店で「Ingrid’s Pearl」というカクテルを頼みました。ボギーの格好をした人と将校の格好をした人がウェイターとして働いていました。因みに「ハイアット・リージェンシー・ホテル」だと映画のセットが見られるのだそうです。本日は久しぶりにバスタブでゆっくり入浴ができました。

2月22日
朝、出発前にNBCチャンネルのCMで面白いものを見ました。
「Shogun」という名前のナイフの17本セットで、いかによく切れるか、細かい作業ができるかなど説明をしていました。

10:55 カサブランカ発 英国航空
13:30 ジブラルタル発
15:30 ロンドン着
ホテルへ

2月23日
午前中は自由行動

14:30 発 成田へ 英国航空

2月24日

11:20 成田着

今回は旅行をするには大変不便な国でしたが、ドゴン族とジェンネという目的も達することができたし、雄大な自然と素朴な人達に会う事が出来て良かったです。


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