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出でよ、私の闇

本日は闇の帝王がお届けします★


いくら晴天の日でも、
体は元気なようでも、
気持ちは前向きなようでも、
目の前で起こる出来事が全て悲しみに染まっているときがある。

その時は気づかない。
何で今日は、重力重めな話?がこんなにたくさん私の前に出てくるんだろう、とぼんやり思うくらいで、
後から気づく。
あの日は楽しかったんだけど、やっぱり全てが重かったな…と。

そういうのを引きつけるというよりは、
そういう悲しみや怒りに自分が敏感になっているんだと思われる。

ある言い方をすると、自分の感情を自分でコントロールできない。I can't control my temper what the heckって感じである。

超苦手なドッジボールでふらふらと最後の方まで残ってしまい、自分の手についに入ってしまったボールを手持ち無沙汰に抱えたまま、きょどっている感じ。外野の人たちは、あそこに投げろこっちに投げろと言っているんだと思うけど、耳に膜がかかったみたいにぼんやりとして、よく聞こえない。
ああ、どうしようかなー。そこに座り込みたいような、みんなの頭の向こうの誰もいない方向に思い切りボールを投げてしまいたいような、でも結局全てがどうでもいいような、妙な感覚である。

そのボールは、涙になって出てきたり
涙にまではなれず、鼻を終始つーんとさせたり
ひどい貧乏ゆすりになったり
虚空を睨みつけたりする。
傍から見れば、ただの情緒不安定である。

自分がなんとなく疲れているような、
傷ついているような感じがあるけど、
それが他人事のようにも感じられて、
どうしようとも思わない。
アクションが必要な気もしない。

何で時に、世界はこんなに痛いんだろうな。
自分の鏡?うざ。


不幸な気持ちは、けれどなぜか、
創造性(仮)も連れて来る。
「全部消えればいいのに」とか
「あれがなければ私はもう少し自己肯定感高く生きれた気がする」とか
私的キラーフレーズと、気だるそうに眼を半分開けた無表情の子の絵が思い浮かぶ。ぜーんぶ、仏頂面笑。何がしたいんだろうね、私は。


テレビの音や生活音が聞こえないように、イヤホンを繋いで大音量で音楽を流す。耳悪くなりそうだけど、関係ないや。私を守ってよ。
前は好きだった韓国のポップカルチャーなるものが苦手になって少し経つが、ドラマのOSTは、やっぱり秀逸だと思う。
悲しさや無力感がここまで綺麗に詰められてるのが、好きだ。これが「恨」なんだろうか。
理解の距離を作ってくれるのが、外国語の良いところだと思う。


この間、久々にすれ違った知り合いから唐突に連絡が来た。ゴシップネタを求めるような好奇心を満たしに来たなこいつ、と思った。案の定、自分の用事を果たしたら未読無視である。もう無視してるつもりもないはず。失礼だなと思った。人のこと利用するなよ。
じゃあ自分はどうなの?
メールボックスを整理していたら、学生時代に自分が返信し忘れていてやり取りが止まっているものが複数あり、慌てて画面を閉じたことがある。自分もやっとんたんや・・・同罪か・・・


この間内見を予約したが、コロナになってしまい行けずじまい。その間に、目当ての物件は募集が終了してしまった。不動産会社とやり取りをしていたが、人がコロナに罹ったって言ってるのにリスケのことしか頭になく労われない営業は終わってるなと思った。まあ端的に言えば、「お体ご自愛下さい」とか上っ面の常套句でいいから、労わってほしかったのである。そしてお気に入りの物件が無くなってしまった悲しさ。


私は감정쓰레기통(感情のごみ箱)じゃないんだぞ、と時々思う。私のことを思いやってくれない人とは、関わりたくないなと思う。
じゃあこのnoteを読んでくれる人たちへの思いやりが、私にあるのかと言われれば、多分そんなにない。「多分」と言っている時点で、ずるい。ただ、これ見よがしに書きつけたい、形にしたい気持ちが溢れてしまう時がある。他人の小言だと思って軽く読んでほしい。


少し前に、エミネムのwithout youという曲を好きになった。どこかで聞いて、気になって歌詞で検索して見つけた。最近の曲と思っていたら、結構前の曲だった。私がまだ幼稚園生の頃に出たっぽい。
個人的なことから政治まで、広く明け透けに、露骨にラップにしてきた人らしい。Shadyっていう別人格?が出来上がっているところとか、怒りを原動力に自他共に傷つける程に曲に落としてしまうところが、何か分かる気がした。自分の経験や考えを創造物に直接的にぶつけているような所が、好きだ。

アメリカの歌をたくさん聴くわけではないが、その時の現地の流行りとか文化的政治的歴史的背景を知らないと分からない歌詞が、結構出て来る印象がある。日本でも、そういう歌がもっと流行ればいいのにと思う。時の政権を皮肉る歌詞が普通に出てくるのとか、羨ましい。そういう文化圏に生まれていたら、もう少し生きやすかったのかな、と思ったりする。ないものねだりだ。生まれた場所によって、他の人には理解できない大変さがあるに決まっている。


昔バレエのコンクールで、珍しくちょっと良い成績を納めたことがある。もう15年前くらいのこと。普段私なんか歯牙にもかけていなかった(だろう)子が、私のことを「小賢しい」と言っていたらしい。つい先日まで忘れていたが、家族に言われて思い出した。当時の私は多分、「えー私がゴシップの対象になるなんて。私でも悪口言われるんだ…笑」とびっくり少々人間不信そして若干誇らしい感覚を覚えていたと思う。そういうの気にし始めると、普段のレッスンやひいてはコンクールまで、上手くいかなくなるんだよね…。

今になって、腹立つなと思う。私は先生に褒められるため、そして自分が自分に納得できるよう一生懸命踊っていただけなのに。
そんな過去のことまでマウント取りたくなるような心情なのである。15年も経ってネットに文句を書いてしまうくらい、落ちぶれた。荒ぶっている。


先日観に行った友達のダンス公演のテーマ書きに、『私の生涯は踊ることに自分を追い込んで苦しめられ、同時に支えられて、…(以下略)』とあった。それを読んだだけで、目頭が熱くなった。私より長く踊り続けていた友達を想い、当時の自分を想い。
バレエを辞めてからも、あの頃の夢に度々苦しめられ、いないはずの陰におののいてきた。ようやくその亡霊から解き放たれたと思っていたのに、『あの頃が無かったら、あの頃が無かったら…!』とどうしようもない考えに苛まれる。でも、あれが無かったら私はどうなっていたんだろう?
それでも体はひとりでに踊りだす。中途半端に。
新しく覚えた振付、早く思いっきり踊りたい。


でもコロナの隔離が明けて、日常的に触れ合える生き物が増え、笑えることも増えた。悲しみを生むのも人、喜びを生むのも人。あーあもし生まれ変わるなら、石になりたかった・・・。・・・石に命はないとか言うな!!(←誰に言ってる?)


闇の帝王寝るか。
奈落の底でおやすみー

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