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飲める人

私は「結構飲める人」だと周囲に思われている。ボトルを空けるとか、ジョッキを何杯もおかわりするほどの「本当に飲める人」ではないけれど、外へ食事に出れば一杯目はビールかハイボールを注文するし、次に日本酒か、料理によってはグラスワインを飲み、酔いが回ってきたなあとか言いながら最後にカシスオレンジを手にしている。 瓶ビールをみんなで飲んでいるときも、すすめられたら無理強いでなければ断らずにグラスを差し出す。                   アルコールに強くはない。一杯目で顔が真っ赤になり、すごく飲んでしまった人のような外見になる。それでも飲み会がお開きになるまでソフトドリンクに変えることをせず、乱れもせずにいるので「結構飲める」ことになっている。

家ではほとんど飲まない。普段は、飲もうという気がおきない。でも、20代のころは飲み会で2杯飲めるか飲めないかであったのに、今は3杯飲めている。若いころよりお酒が強くなったのかもしれないと試してみたくなる。    

そこで、お刺身が安く買えたときや、おでんがうまく煮えたときなどに、スーパーやコンビニのお酒売場で美味しそうなデザインの缶を1本、買ってきたことがあった。

けれども、家ではこの350mlひと缶がどうしても飲みきれなかった。テーブルに好物が並び、テレビでは好きなドラマが佳境に入り、気楽な格好でソファーの定位置に座っているという、この上なく幸せなシチュエーションが、火照った顔だけ残して色あせていく。気づけば外は少し明るくなってきていて、テーブルの上には空の皿が並び、テレビでは通販番組が流れ、缶を持ち上げると液体の重みが残っていた。ああ、やっぱり私、お酒強くなってないんだ。

でも私はたしかにここ何年かで、お酒が好きになってきていた。正確にいうと、非日常の空間で、ひとがお酒と美味しい料理を楽しむ風景が好きだ。楽しむ人達の中に、自分は入っていてもいなくてもよいのだけれど、入っているときは、3杯飲めるようになった。非日常であること、一緒に楽しみたい人達がいること、分かち合いたいものがあること。その結果増えた1杯を前にして、気分が晴れたこと、笑ったこと、救われたことといったら。私にとって、この1杯の差は楽しさの差、幸せの差なのだ。

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