我慢は美学という呪い

物心ついた頃にはすでに両親の顔色というものを伺って生活していた私。喧嘩してない日の記憶がほとんどないほどに家庭内は常に戦場で、あの時の自分に二つ名が与えられるとしたら、間違いなく「マインスイーパ」だろう。

そんな環境で育ったせいか、己を出すことが許されるという感覚がなく、何か理不尽なことや災いに襲われても感情を押し殺す、それこそが正しく美しいものだと自分に言い聞かせていた。登下校中はよくサカナクションの「アイデンティティ」を聴いては物思いにふけっていたなとふと思い出す。

しかし、それが大人になって家族以外の人と関わるようになって社会というものを少しずつ知っていくうちに、自分の感覚が間違いであるということ、育ってきた環境の異質さを突きつけられてしまったのである。薄々は気付いていたけれど、蓋をしていたもので無理やりカサブタを剥がされたような感覚に陥った。痒いし痛みも伴うものなのだ。

「これまで培ってきたものが覆されるということは自分自身を否定されているのと一緒だ」と機能不全家庭で育った元カレはよく言っていたけれど、当時は「何をそんな馬鹿げたことを…」と内心嘲笑っていた。ただ今思うと、同族嫌悪なのかまるで弱い自分を見ているみたいで、自分とは違うと思っていたかったのだと思う。だいぶ自分の弱さも受け入れられるようにはなってきたとは思いたいが、今でも他者からの評価は気になるし虚勢を張りたくなってしまう時がある。様々な場面でそういうのと葛藤し続けていかなければならないのは、こういう星のもとに命を落としてしまった者の運命(さだめ)なのかもしれない。

なんだか中二病みたいな文章になってしまったけど、みんな心に斉木楠雄に出てくる海藤瞬がいるでしょう?(いない)

感情を我慢することはデフォではあるんだけど、なぜか物欲は全然我慢できないのはまた別のお話で…

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