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2020年9月28日のこと:須藤圭太

読書感想文 No,4
「ひとはなぜ服を着るのか」
著者 鷲田清一

鷲田さんの本が読みたい。そう思ったのは最近いろんなところで鷲田さんの名前を見たり聞いたりしたからだと思う。
前回読んだ鷲田さんの本は「京都の平熱」だった。著者が京都市バス206番に乗ってぐるりと京都を回りながら哲学者の視点で街案内をするという内容で、この本をテーマにした展示会に出品する為に読んだものだった。(ちなみにこの本の中に我が師 陶芸家 松井利夫が京都の変人として登場する)

図書館で本の検索機に名前を入れてみると結構な数の本がヒットした。
鷲田さんがファッション関係の本を何冊か書いているのは知っていたが、なぜ服を着るのかという根源的なテーマのタイトルが気になり、借りることにした。

元々ファッションには興味があって、服を見たり買ったりするのも好きだし、書店やコンビニで目に止まればファッション誌も読むし、2年ほど前から私のものづくりのテーマはファッションとしている。
それはファッションがものづくり、特に工芸と無縁ではないからだ。
例えば着物にしても、染色、織り、彫金などの工芸技術なしにその装いは生まれないし、それは洋服や他の民族衣装でも同じだ。パリコレクションで発表される最新の服であってもその裏には技術とものづくりが必ずある。

余談だが私は19~22歳の3年間、アパレルショップ店員として働いていて(しかも109に入っているようなギャル系のショップである)、そこでファッションカルチャーについての基礎的な知識を学んだ。

本書は人間の身体にはじまり、そこに纏う服、服を作る文化、ファッション、モードについて哲学的な観点で書かれた一冊で、個人的には身体にまつわる章が特に興味深かった。

“我々の身体”と言った時に思い描くのは衣服を纏っていない体、つまりヌードということになる。鷲田さんはヌードはヌードという意味を纏っている点で無垢な状態ではなく、むしろ衣服によって作られたものであるとしている。
確かに現代人の我々にとって身体に衣服を纏っていない状態でいる時間の方がはるかに短い。その意味でも衣服は第2の皮膚と化し、ヌードはヌードという特別な状態であると解釈できる。

また身体に施す装い、「メイク」についても書いている。
西洋で化粧を意味する”コスメティック”がコスモス(宇宙・秩序)から派生した言葉だという点に触れ、普段メイクを集中的に施すのが眼、鼻、唇、指先といった感覚器官であることから、これは化粧がもともと宇宙をより深く迎え入れるために試みられたものであると解釈している。

また、ファッションというのは他人がじぶんに対して抱くイメージ、そこにじぶんを重ね合わせようとする行為だとも言っている。
以下本文より。

わたしは他のひとたちが見るこのじぶんの顔をじぶんではけっして直視することができないし、じぶんの髪型もからだ全体のシルエットもふるまいの型もじぶんでは直に確認することはできない。
じぶんで見たり触れたり聴いたりできる身体のいくつかの部分や、他人の眼が教えてくれるもの、鏡や写真の映像…それら断片的な情報をまるでパッチワークのうようにつぎはぎしながら、想像力の糸でひとつの全体像へとじぶんで縫い上げるよりほかに、じぶんの身体を認識する術はないのである。

これは確かにその通りで、一番見たいじぶんの姿を、じぶんだけが見れないというジレンマこそファッションに対する興味、欲求の源になっているのは事実だと思う。

ファッションはものづくり、そして自己の意識と深く繋がっている。
ちょうど11月に控えている展示会に出品予定の作品もファッションをテーマに作っているところ。制作に向けて良いインプットが出来た。


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