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『千鳥 他四編』鈴木三重吉


 1935年初版のこの古書は、ほんのり焼けた紙面へ、インクのたっぷりのった、ぽてぽてした明朝体が、旧仮名づかいで刷られています。ときおり活字が切れたりかすれたり、行からずれたりしています。古りた紙を繰るざらりとした感触は指さきへ懐古の情を伝えます。「千鳥」のような作品を読むのにふさわしい環境です。明治や大正の日本の風景を味わうには、こんな古くてきれいな本で読むに如くはありません。

 『千鳥 他四編』には、鈴木三重吉の初期作品「千鳥」「山彦」「おみつさん」「烏物語」「黒髪」の五編が収録されています。
 ほとんどが抑揚のない淡々とした物語で、それがしずかな文体で描かれています。精緻な風景描写は目に見えるようで、著者の実体験かと思わされますが、三重吉はこれを空想で描いたそうです。巻末に著者の解説があります。
 この地味で渋くそしてしみじみとした世界は私がもっとも好む作風です。簡浄の筆で描く古い日本の自然、町並み、人々が着ているもの、食べているもの、暮らしている家、言葉づかいやしぐさ、そうして心象風景が、ありありと目の前に浮かんでくる読書体験が好きです。

 スっとある場面からとつぜん始まって、大きな波はないものの、潮の満ちていくように物語の厚みがしずかに増していき、そうして屏風の倒れるようにぱたりと途切れて終わる、千鳥他四編はいずれもそんな展開のしかたです。
 余計な説明はなくて、描写されたものから読者が設定や関係性を察していく。そこに読者の想像が作品の一端を担う余地ものこされている。そうした余情ゆたかな作品に私はひとしお惹かれます。
 しかしそれで人に読ませることは筆力の要る芸当だとおもいます。

 「中庸」にある言葉ですが、

 “錦を衣て、絅を尚う” ことや、
 (錦を着て、その上に麻の粗末な上着を羽織る)

 “君子の道は淡にして厭わず” や、
 (水のようにあっさりしながら、長く行っても嫌にならない)

 “簡にして文 温にして理なり” は、
 (単調に見えて彩がある、柔和でありながら乱れがない)

 文章道においても真理だとおもいます。

 この本の五編は互いにつながりはありませんが、共通する三つの素材が見えてきました。すなわち、不幸な女性、恋、別れです。これは文学作品によくある型ではないでしょうか。同じような骨組みに、手を変え品を変え肉付けをした作品がたくさんあるような気がします。
 文学的なテーマというものは深いところではすべて普遍的な真理へ収斂していくので、おのずとその型は限られてきます。よって、それをどのように表現するか調理するかというところに作家の個性と実力が発揮されるのではないでしょうか。
「意は似せやすく 姿は似せにくい」というような有名な言葉があります。むずかしくてよくわかりませんが、「何を言うかは真似できても、どのように言うかは真似できない」という指摘ではないかと見当をつけています。

 さいごに、五編に共通するもう一つの外せない特徴があります。主役をとりまくひとびとの善良で人情深いところです。登場人物がみんなやさしい人ばかりで、読んでいて心地よくなります。人によってはそれが退屈の原因になるかもしれません。「退屈なのは悪が登場しないから」という文芸評論を読んだことがあり、妙に納得した記憶があります。でも退屈な作品が好きな私はこの五編に通底するはかない愛情と人情に滋味を覚えます。悲劇の主役が不幸という舟へ乗って、ひとびとのやさしさにふれながら、非情な運命に流されてゆく。そんな物語なのです。

 「千鳥」は夏目漱石が推薦してホトトギスへ掲載されました。鈴木三重吉の処女作です。そのとき三重吉はまだ学生でした。学校の教室では漱石に英語を習っていました。
 夏目漱石は多くの若者の作品を読み、よいものは積極的にとりあげて世間へ紹介していました。漱石は作品の悪い点には目をつぶり、良い点だけを評価していたといいます。何か技術を教えることよりも、そうやって若い芽に水をそそいで育む姿勢が、門下三千人と言われるほど親しまれた要因かもしれません。文豪としての権威だけではなかったとおもいます。
 漱石がいなければ世に出なかった名作がたくさんあるでしょう。「千鳥」もそんな名作のひとつだとおもいます。

 鈴木三重吉は二十四歳で小説家としてデビューを果たし、後年は童話作家へと転身しました。



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