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アンネの日記 ~生きつづける少女の魂~

アンネ・フランク,深町眞理子訳 『アンネの日記』増補新訂版(文春文庫)

 アンネたち隠れ家の住人は自分の存在そのものを隠さなければならなかった。窓を開けることもできず、物音にも気を使った。数人の支援者によって隠れ家に生活物資が持ち込まれた。それが命綱だった。支援者もまた命がけだった。隠れ家を一歩出ればナチスの秘密警察が目を光らせている。警察は隠れ家のある建物を見廻りにも来た。壁一枚を隔ててナチスが歩いている。隠れ家の内側でアンネたちは凍りつき息を殺した。

 二年間に及ぶそんな隠れ家生活だったが、アンネは、個性あふれる隠れ家の住人たちの生活ぶりや、思春期を迎えた自らのこぼれるような情感を、活き活きとユーモラスに日記の中へ描き出している。不安と恐怖のもとにありながら、日々繰り広げられる住人同士のドタバタ劇は、ときに戦時下であることを読者に忘れさせ、まるでホームコメディを見ているようでもある。アンネのみずみずしい感性と優れた文章力によるものだろう。
 厳しく制限された狭い空間の中で、アンネのまばゆい青春時代が確かにあった。ささやかな恋も経験した。しかしその青春はあまりに脆く、短かった。1944年8月4日を最後に日記の更新は止まる。残りのページは永遠に白紙のままだ。アンネの青春も、その後に辿るはずだった長い人生の歳月も、戦争という巨大な闇に一瞬で吸い込まれてしまった。享年十五歳。

 隠れ家の住人たちがナチスによって連行されたあと、心ある支援者の手によってアンネの日記は回収され、長いあいだ保管された。日記は、戦後、家族で唯一生き残ったアンネの父親へ手渡された。父親がアンネの日記に目を通したときの気持ちは、とても想像できない。しかし、世のため人のために働きたいと願い、日記の中へ、
 “わたしの望みは、死んでからもなお生きつづけること!”
 と書き残したアンネの魂は、日記という形で救われたのだ。アンネの日記は、一方では歴史を学ぶ資料として、一方では希望と癒しをもたらす文学として、これからも人類に読み継がれ “生きつづける” だろう。この崇高な日記が、明日の命をも知れない日々のなか、光の差さない窮屈な隠れ家で人知れずつづられていたことを偲びたい。

 僕たちもつい先年まで「家から出られない」という境遇を経験した。パンデミックなどアンネたちに比べれば遥かに生易しい条件でありながら、世の中は不平不満の言葉と他責の怨念に充満していた。しかし日記の中の少女が僕たちにおしえてくれているのは、人間はいつでもどこでも成長できるということ。そして仲間と力を合わせれば、どのような形でも生きつづけることができるということだ。人をそしる前に、自分にできる努力と工夫をすべきだろう。

 これからも僕たちは思いもよらない形で社会的な困難に遭遇する可能性がある。そんな逆境にあっても、僕たちは前進し続けなければならない。言い訳はできない。かつて窮屈な隠れ家で希望を失わず快活に暮らし、すくすくと成長していた少女がいたことを思い出そう。その少女はブルーインクの流れるような文字でこう書いている。

“なぜならいまでも信じているからです-たとえいやなことばかりでも、人間の本性はやっぱり善なのだということを。”

アンネ・フランク 実際の映像 - Anne Frank real footage 


 


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