神様と遊んだ記憶
山の中腹にある広場で幼い私は地べたにしゃがみ込んで遊んでいました。住んでいる場所からそう遠くない山だったとおもいます。父の車で山道をのぼってどこかへおとずれたときのことです。
その広場はひらけた粗末な平地で、ぐるりを木々がかこっていました。私のかたわらにはぽつんと小さなお地蔵さんが立っていました。私はお地蔵さんにむかって草をむしったり土をつまみあげたりして戯れていました。
何をおもったか私は、お地蔵さんを手で押しました。地蔵はごとりとうしろへひっくりかえりました。そばにいた母があわててお地蔵さんを引き起こしました。
これは自分でたどることの出来る、おそらくもっとも古い記憶です。大人になってから思い出すと、ひやりとする場面です。お地蔵さんを倒してしまったことで、その後の私の人生には罰が当たっているのではないだろうかと、ときおりそこはかとない不安をおぼえることもありました。
あるとき柳田國男の『遠野物語』を読みました。岩手県の遠野地方につたわる、伝説や伝承をあつめた本です。その中にこんなお話しがありました。
村の神社に子供たちがあつまって遊んでいた。子供たちは境内にあった石像を引っ張りまわして遊びはじめた。通りがかった村の大人が、神様にいたずらをしてはいけないと叱ってやめさせた。後日この大人は祟られて身体を壊し苦しんだという。神様は子供と遊ぶのが大好きだった。だから子供と遊んでいるところを邪魔した大人のほうが神様の怒りをかったのだった。
このお話しは意外性があって印象に残りました。同時に、自分がお地蔵さんを倒した古い記憶を連想させました。そうして、もしかしたらあのときの私はお地蔵さんと遊んでいたのではないだろうかとおもいました。
記憶にはないけれど、私はお地蔵さんと言葉を交わしたのかもしれません。気さくなお地蔵さんは私を喜ばせようと、でんぐり返しをしてみせたのかもしれません。そんな空想をはたらかせると、思い出にまつわっていた罪悪感がふっと晴れました。
人生でもっとも古い記憶が、神様と遊んだ思い出であることは、私のこころをあかるくゆたかにしてくれました。けれどこのような体験はけっして私だけの特異なものではないでしょう。きっとすべての大人が遠い昔に体験していた、子どもの世界のありふれた風景にちがいありません。
あのお地蔵さんはいまもおなじ山に棲んでいて、ときおりおとずれる子どもの遊び相手になったり、わざと転んで大人をおどろかせたりしていることでしょう。
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