明治人の気宇〜渡邊庄三郎の新版画ムーブメント
明治人は気宇が違うなー、と感じることありせんか?
新版画のブームを欧米に巻き起こした版元・渡邊庄三郎の評伝を読んで、明治人の気宇を感じました。非常によい本でした。
渡邊庄三郎は、茨城県五霞村の大工の息子で、子供の頃に東京へ丁稚奉公に出てきた、ま、言わば普通の庶民です。
その子供が、縁あって浮世絵商の社員になり、辛苦して日本有数の「浮世絵商であり、かつ浮世絵研究家」という存在になり、ついには「新版画」の版元となり、欧米でその名を轟かせたわけです。
渡邊庄三郎は、丁稚奉公をしている14歳の頃に、
「将来は貿易商になろう」
と、英語の学習を自発的に始めたんだそうです。
偉大です。
14歳ていうと、現代では中学生です。中学生が、志をたてて学問に励んでいるわけです。他に大変な仕事を持ちながら。
なんですかね、こーゆー精神というのは、どこでどうやったら形作られるんですかね。何とかしてあやかりたいものです。
その精神が、後年の新版画ムーブメントに至るわけです。
浮世絵が欧米にブームを巻き起こしたのは有名ですね。
モネやドガやゴッホが浮世絵に影響を受け、浮世絵をトリビュートした作品をいくつも残しています。いわゆる「ジャポニズム」です。
で、明治の初めの頃、「浮世絵が欧米人に売れる」ということがわかって、あちこちで「浮世絵商」という職業が成立し、隆盛したそうです。それだけ欧米でドッカンドッカン売れた、と。
例えば、帝国ホテルを設計したことで高名なフランク・ロイド・ライトは、米国の近代を代表する建築家ですが、一方浮世絵のコレクターが高じてディーラー(画商)まで行なっていたそうです。
工学博士でライト研究家である谷川正己の労作『フランク・ロイド・ライトの日本~浮世絵に魅せられた「もう一つの顔」』で知りました。
谷川の推測によれば、ライトが最初に日本芸術の影響を受けたのは、若き日、少しだけ働いたシルスビーという建築家の事務所ではないか、と。
シルスビーは、アーネスト・フェノロサの従兄弟だそうです。
フェノロサは、明治の初めに、いわゆるお雇い外国人として来日して東京大学で教鞭を取り、当時かえりみられなかった日本の美術を再発見して海外に紹介し、東京大学での教え子だった岡倉天心とともに東京美術学校(東京藝術大学)の設立に尽力した、日本の美術史では高名な人です。
そのため、シルスビーは米国の最も早い時期から日本美術の愛好者であり、彼の事務所や自宅は、日本や東洋美術で埋め尽くされていた、と。
ここで驚くのは、ライトがシルスビーの事務所で働いてたのは、1887年→明治20年頃の話なんです。
そんな昔に、欧米に比べたら新興国だった当時の米国にさえ、早くも日本美術のコレクターが存在していたんですね。
ジャポニズム恐るべし(゚ロ゚)
その、欧米にジャポニズム・ムーブメントを巻き起こした浮世絵、言い換えれば「旧木版画」に対して、新しい、現代の木版画を作ろう、というのが渡邊庄三郎の「新版画」です。
正直な話、わたしは大学で美術を専攻しましたが、「新版画」のことを知りませんでしたし、新版画の代表的な画家である川瀬巴水や吉田博のことも知りませんでした(T-T)
が、川瀬巴水や吉田博は欧米ではわりかし有名で、ダイアナ妃は執務室に吉田博の作品を飾ってたそうですし、アップルのスティーブ・ジョブズは、1980年代から新版画のコレクターとしてその筋では有名で、川瀬巴水の作品を愛していたそうです。
なに?
わたしは高校生の昔っからアップル好きで、ジョブズの話も色々読んできましたが、新版画のコレクターなんて話聞かなかったぞ、と。
色々読んでみると、マッキントッシュの最初の発表の際、当時としてはとても高度な描画性能を示すサンプルとして新版画が使われたそうで、あぁ、これは見たことあるな。
なんかの浮世絵だと思っていたんですが、明治後半〜大正期の人気作家で、新版画も手がけた橋口五葉の新版画「髪梳ける女」だそうです。
なんつーこった。知らなかった(T-T)
そうすっと、ジョブズが昔キーノートをやる時によく使ってたスライドの背景が浮世絵みたいだなと思ってたんだが、あれはまさに浮世絵の影響なんだな。「天ぼかし」を逆さにしたんだ。
偉いもんです。
明治人の気宇です。
14歳の頃に「将来は貿易商になろう」と、英語の学習を自発的に、孤独に始めた丁稚さんが作り上げた芸術運動が、その死後も、現代まで、英国の人にも米国の人にも何かをもたらしているわけです。
しかも、日本発で欧米に知られる芸術ムーブメントというのはとても数が少なくて、浮世絵や新版画の他には具体美術協会しか私には思い浮かびません。
その意味でも、とても偉大なことを成し遂げたんですね。
偉いもんです。
あやかりたいです。