見出し画像

針生一郎先生、最後の挑戦。80歳を超えて、夫人を失った悲しみや痛みを乗り越えて、、、

反体制の美術評論家、美術プランナー、文芸評論家として活躍され、多摩美術大学教授、和光大学教授、岡山県立大学大学院教授、美術評論家連盟会長、金津創作の森館長などを歴任された針生一郎先生は、私の大学時代の恩師です。

昭和40年生まれの私の世代ではそうでもなかったですが、私より20歳くらい上、いわゆる団塊の世代の方々の青春時代には高名だったんだそうで、いわゆるオピニオンリーダーだったそうです。

銅版画家の山本容子さんの本読んでたら急に針生さんの名前が出てきたり、団塊の世代の方と話していたら針生さんの話になって「ハリュウイチロウさんはお元気なんですか?」なんて尋ねられたり、当時の私の恋人のお父さんが拓殖大学の先生で、つまり保守的な大学の先生で、恋人がお父さんに「ハリュウイチロウさんってエライ人なの?」と尋ねたら「エラクない!」ってキレられたり、そんな感じで有名な方でした。

ご本人によれば、「よど号ハイジャック事件」「あさま山荘事件」のあたりから「左翼陣営」とひと括りにされて、テレビへの出演依頼とかメディアからの原稿依頼とかがメッキリ減ってしまったそうです。

2010年に亡くなったんですが、その半年前くらいまで長い長い間、大学時代のゼミ仲間と共に、2〜3ヶ月に1回ご自宅に伺って自主的なゼミを行っていました。

晩年、

「私設秘書みたいな人を雇って、最後の本を口述で書いているんだ」

とよく話されていました。

私は感銘を受けました。

80歳を超えて、夫人を失った悲しみや痛みを乗り越えて、まだまだ挑戦されている恩師に感銘を受けました。

先生が亡くなった時、

「あの本はどうなったんだろう?」

と思いながらも、葬儀で話にも出なかったし、出版された形跡もないので、残念ながら結局完結しなかったのかな、と思いました

針生一郎先生の葬儀の様子


しかし、その私設秘書の方が、針生さん最後の挑戦を文章にされていました。針生さんを知る方には、すごくグッとくる一章だと思いますので、ご紹介します。

文章を書かれた「坂上しのぶ」さんという方を私は存じ上げないんですが、美術史家の方で、下記にプロフィールが掲載されています。京都の第二次大戦前後の前衛美術運動の専門家みたいです。

針生さんの晩年よく伺った話や針生さんのお宅の雰囲気が絶妙に描写されています。

「坂上しのぶ」さんによれば、針生さん生涯最後の挑戦のテーマは、下記のようなもので、

モンテ・ヴェリタ(聖なる山)と名付けられたスイスのマジョーレ湖畔の地域では、19世紀後半から20世紀にかけて、資本主義が爛熟して芸術がすべて商品になる、その金の力に支配されたら一体どうなるかというところで、疑いと失望を抱いた芸術家、思想家、宗教家等が自然と住み着き、対抗文化の巨大なコロニーを作られたのだそうだ。そこには、先生が生涯をかけて問い続けて来ている前衛芸術の源流があるという気がするので、今こそそれについて改めて考えてみる時である、と思ったのだと言う。

針生先生との一年 「序章 この地域とのわが出会いまで」

その原点は、先立たれた夏木夫人に下記のような𠮟咤を受けたためだったようです。

数年前に先立たれた夏木夫人には,「あなたは片々たる注文原稿だけで生涯を終えるつもり? ライフワークが一つも無いじゃない! あなたは今,美術評論家として歴史に残るか残らないかの境目なのに,ライフワークが無いなんて致命的ですよ!」と,かねがね言われていたらしい。しかもその奥さんには,亡くなられる間際に釘を刺すかのように,「これだけ言ってきたのにちっとも書かないのなら,あなた駄目かもね」と,断言されたと言うのだ。

針生先生との一年 「序章 この地域とのわが出会いまで」

確かに、針生先生の晩年、よく聞いた言葉です。なつかしい。

夏木夫人、わたしも数回お会いしたことがありますが、明るくてハキハキしていて、ムッツリしていることの多い針生先生にぴったりの奥さんだな、という感じがしました。

ちなみに夏木夫人、長崎の写真館の娘で、本になっています。著者は娘さん、つまり針生先生の娘さんでもある根本千絵さんです。

そのほがらかな夫人に思いがけず先立たれて、かなり針生先生が打ちのめされているのがわかりました。わたしは1990年頃に針生先生のゼミに入って、それから20年くらい断続的にお話させていただいていたわけですが、嘆くような言葉を繰り出す針生先生に初めて会いました。それだけ悲しみが深く、大きな痛みに耐えているのだということが伝わってきました。

そこを、乗り越えたわけですね。あるいは、希望を見て乗り越えようとされたわけです。針生先生は。

80歳を超えて、夫人を失った悲しみや痛みを乗り越えて、まだまだ挑戦されていくわけです。

その過程が、「坂上しのぶ」さんの一文に描写されていて、ほんとうに面白いです。おびただしい数の本との格闘とか。ほんと、針生先生のお宅はすごい数の本の山でした。

結局、針生先生は動脈瘤が破裂して玄関の中に座った形で亡くっていたそうです。それもですね、カッコいいな、とわたしなんか思うわけです。

うろ覚えの話ですが、前日だか前々日は館長を務めていた福井県の金津創作の森美術館かなんかに会議に行って、「調子が悪い」つって讀売ランド前のご自宅に帰ってきて、

亡くなる当日もどこかに、会議なのか、講演なのかわかりませんが、どこかに出かけようとして、玄関で亡くなっていたそうです。

なんか、「前のめりに亡くなった」っていうか、「現役のまま亡くなった」っていうか、そんなカッコ良さがありますよね?ありませんか?

「戦後前衛芸術の伴走者」「行動する美術評論家」としてふさわしい、カッコよい去り方だなぁと、わたしは思いました。さすがに一味違うなぁ、と。