民衆の素朴な復讐〜森永ヒ素ミルク中毒事件と憲法第9条
YOUTUBEを見ていたら、こんな動画がありました↓
母が森永乳業の製品を一度も買わなかった理由
わたしの母は森永乳業の製品を一度も買いませんでした。手に取ってみたものが森永乳業だと、すぐに棚に戻していました。
なぜかというと、母が若い頃、わたしを産む前、森永ヒ素ミルク中毒事件があったからです。
1955年(昭和30)年頃、主に西日本で森永乳業の粉ミルクにヒ素が混入し、1万3千名の乳幼児をヒ素中毒にし、130名以上の乳幼児を死亡させるという事件というか、大惨事がありました。
まーひどい話で、かなしい事件でありまして、森永ミルク中毒被害者弁護団長を務めた若き日の中坊公平が、裁判の冒頭陳述でこう述べたそうです。長いですが、名文というか、名陳述ですので記します。
事件発生から23年後の救済
当時、消費者の権利とかそれに該当するものはぜーんぜんなかったようで、行政は森永乳業側にたった対応をします。さらに当初森永乳業も責任を認めず不誠実な対応に終始し、十分な救済処置がとられなかったそうです。
しかし、被害者は厳然として存在します。
森永ヒ素ミルクを飲まされた赤ちゃん達は、長じるにつれて脳性麻痺・知的障害・てんかん・脳波異常・精神疾患等の重複障害に苦しみます。
そこで、裁判が起こされ、森永の不買運動が起こされます。
そして、事件発生から23年後、やっと森永乳業が責任を認め、森永乳業が救済資金を拠出する「ひかり協会」が1973(昭和48)年に設立されました。やっと被害者の救済が始まりました。
で、話は最初に戻りますが、わたしの母は、わたしを昭和40年に産みます。つまり、森永ヒ素ミルク中毒事件の過程を、子供を持ちたい妻→子供を産む妻→子供を産んで育てる母として一緒に生きていたわけです。
母は、森永ヒ素ミルク中毒事件に涙して憤慨しました。だから森永乳業の製品を一度も買わなかったんです。
民衆には、こーゆー素朴な正義感がありますね。自分にはそんなに力はないが、このことだけは一生続けるみたいな。それは、民衆の素朴な復讐だと思うんです。
日本国憲法第9条
そこで思うんですが、憲法第9条に対するある種の対応もね、民衆の素朴な復讐だと思うんです。
憲法第9条には、下記のように記してあります。
「戦力は保持しない」
「交戦権は認めない」
たって、ちょっと話に無理がありますよね。理想主義過ぎるっていうか。
日本国憲法が作られた昭和20〜21年、太平洋戦争終了時はまだ戦後世界の方向性が見えていませんでしたが、その後共産主義ソビエトと共産主義中国といったある種の専制強権国家が勃興し、両国と国境を接している日本が何の戦力を保持しないっていうのは、ちょっと無理があるようになりました。
それは日本の首脳も考えたことでしょうし、米国はじめ連合国というか、後年「西側」と呼ばれる国々の首脳も考えたことでしょう。
なぜなら太平洋戦争敗戦後、憲法第9条を持っていながら、日本が戦力を保持しなかった時期というのは、一時もないからです。
連合国軍による日本の占領は昭和20年の敗戦から昭和27年のサンフランシスコ平和条約の発効まで続くわけですが、その間、当然連合国軍の戦力が駐留してます。つまり、戦力があります。
昭和25年に警察予備隊ができて、ある種の再軍備を行い、その警察予備隊が昭和27年のサンフランシスコ平和条約の発効以後、連合国軍の駐留が終了した以後、自衛隊になります。やっぱり戦力があるわけです。ま、色々言葉では何だかんだ言ってるわけですが、自衛隊ってのはどうしたって戦力ですわね。
というわけで、太平洋戦争の敗戦後、憲法に記してあることとは異なり、日本はずっと戦力を持っているわけです。しかし、
「それを許さない」
「一切、憲法改正はさせない」
という理想主義の人たちがいて、以前はその意見に過半数以上の人が賛同していました。以前は。
これは、過半数以上の人たちがその理想主義の人たちを全面的に支持していたわけではありません。だって、戦後は多くの期間、憲法改正、特に9条の改正を党是に掲げる自民党が政権を握ってきたわけですからね。
そうではなく、民衆の素朴な復讐として、論理の上だけでも、戦争をさせないようにしたい、もう戦争はしてほしくない、あんなひどい戦争に参加したくない、食べ物も満足にない状態に戻りたくない、という意志を、過半数以上の人が示していたんだと思います。
この「素朴な復讐をする人」「過半数以上の人」というのは、きっと、主に戦争を体験した人でしょうね。
その方々がだんだんと去って行く時代になったので、最近では憲法改正の議論が国会でも行われるようになったんでしょうね。
論理的にはそれは正しいと思うんですが、なんかある時代が去っていったようで寂しい感じがします。
みんな、いなくなっちゃったんですね。
わたしの母も、2022年に去って行きました。