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人を救うということ(3月の活動報告)

マンガを描いていて、たまに「救われました」というご感想を頂くことがある。

とてもありがたい。ふるえるほど嬉しい感想だ。でも、この言葉をそのまま受け取って「私がこの人を救ったのだ」と思ってしまうと、ちょっと危ういと思う。

以前、マンガに関するインタビューを受けた際、「人を救うために漫画を描いているんですか?」と聞かれて、「はい」と答えてしまったことがある。今でも時々思い出しては反省している。インタビュアーが悪いわけではなく、また単に便宜的な言い方なのかもしれないけど、具体的に人を救うための行動を何もしていないのに、「救うために」って言うのはちょっと違うんじゃないかと思った。

マンガを読む、そしてその感想を作者に伝える。そこで「救われました」と言ってくれる。その読者の気持ちが尊いのであって、わたしはその方の苦しい環境を取り除くために何をしたわけでもないのよ。

マンガを描くと、そういう尊い素直な感情を、読者に見せてもらえることがある。
私は読書をするとき、人の心の底の本音を知りたいからという理由で人の書いた本を読むけど、自分が描き手になるときには、作者だって読者の本心が知りたいから自分の本心を差し出すんだよな、と思う。
そういうことができるからマンガを描くのはやめられないのだ。

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救うとはなんだろう。わたしがやっているのは、過去の感情を思い出して、「本当はこうだったのだ」という感情の形を照らし出すこと。すみずみまでライトをあてて、しっかりと形を見せる。それを見た読者の方が、ああ、私にも同じ感情がある、と思って、そうなると今度は読者自身が自分の感情にライトを当てられるようになる。私が心がけているのはそういうことだ。

人間の、たくさんの虚飾や保身や建前や自己欺瞞をはがしたもっと奥深くに、その人がその人でいられる庭がある。普段は忘れているけど、そこに光が当たると「救われました」と言って、こちらにそれを見せにきて下さる。

どれだけ、社会がつまらないもので溢れていても、そういう庭を隠し持った人が存在するのも、この社会なんだよな。そう思うと、ああ、まだこの社会で頑張ってもいいかな、という気分に、なったりしますよね。それを確認するために芸術はあるよね。

3月の活動報告です!

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