(14)あとがき~Antidote

「事実は小説より奇なり」という使い古された決まり文句がある。予想もしなかった現実に直面したわたしの頭にいつも浮かんでいたのは、このフレーズだった。この物語は、まず偶然がなければはじまらなかった。実際、胃がんは早期だと自覚されることはまずない。早期の胃がんは健康診断などで内視鏡検査を受けたときに発見されるケースが大半と考えられる。このうち、胃がんの早期発見を目的として定期的に胃カメラを飲んでいる人は少なくないだろう。他方で父のように、健康診断でバリウム検査を受けたらたまたま再検査となった、がんとは直接関係のない胃痛、胸焼けなどの症状で病院を受診し胃カメラを飲んだらたまたま発見された、というような事例も意外に少なくないのかもしれない。

では、胃がんの早期発見はどのくらいめずらしいのだろうか。ここで、国立がん研究センターの統計(リンク)を参照する。2010年から2011年の2年間で診断された胃がん93,032例のうち、I期だったのは59,355例を占めている。つまり胃がんに関しては約10年前の時点でも6割超が早期に発見されており、その意味で早期発見はむしろありふれていると言える。たしかに胃は内視鏡で直接確認できるので、早期にがんを発見しやすい臓器なのはおそらくまちがいない。一方、I期の次に多いのはII期でもIII期でもなくIV期で18,409例に上る。つまり約2割の胃がんは進行しきった状態になってはじめて発見されたことになる。父は胃がんの検診を定期的に受けていたわけではないので、運がわるければ手遅れになるまで見つからない可能性は十二分にあった。ここまで再三書いてきたように、胃がんはやはり甘く見てはいけない。

それでは、父が命拾いした理由は偶然がすべてなのだろうか。それだけではない、とわたしはおもう。この結末へと父を導いたものは、つかんだチャンスを手放さなかった人間の力にほかならない。N医師による的確な治療があったからこそ、この結果は生まれた。もちろん父の担当医がN医師になったこと自体は偶然の賜物だと言える。しかしそうだとしても、N医師のような医師が担当医になることは本当にめずらしいと言えるのか。N医師は内視鏡の専門医として認定を受けているので、決して腕のわるい医師ではない。とはいえ、抜群に腕のいい天才医師というわけでもないようにおもう。わたしが知らないだけでひょっとするとN医師は業界にその名をとどろかせている存在なのかもしれないが、名前をインターネットで検索しても出てくるのは同姓同名の他人ばかりだった。N医師はA病院というどの町にもあるようなそこそこの規模の病院に勤務する、ごくごくふつうの医師と見てよい。とするとN医師のような医師が担当医になること自体は、特別めずらしいとは言えないだろう。一方で、わたしたちから見たN医師は名医だと断言できる。たしかに「名医」の一般的なイメージは、大学病院などでむずかしい症例を数多く手がけ著しい実績を上げている医師だとか、あるいはテレビに取り上げられたり一般向けにコラムや本を書くなどしてメディアへの露出がある医師だとか、そんなところだろう。その意味だとN医師は「名医」ではない。しかし、世間に名前や顔を知られている医師だけが名医とはかぎらない。わたしたちが知らないだけで、N医師のような名医はどんな場所にもきっといるにちがいないのだ。おそらくこの文章を読んでいる人の身近にも。そのように考えてみると、父が度重なる幸運に恵まれたことに疑いの余地はなさそうだが、これが確率的に非常に起こりにくい現象かと問われるとそうでもないような気がしてくる。

わたしがこの物語を書こうと考えた理由はいくつかある。きっかけとしては、父に胃がんが発見されるまでの経緯を途中でふりかえったときに、まるで作り話のように感じたことが大きい。わたしは小説を書いた経験はないが、これなら体験をそのまま書くだけで読み物として成立させられるという確信があった。しかし読み物としてただおもしろいだけでは見世物と変わらない。わたしは今回の幸運を「おすそわけ」したいと考えた。つまり父のようにがんが早期に発見され、早期に治療を受けられる人がひとりでも増えれば、幸運の「おすそわけ」になるのではないか。そんな考えがこの物語を書く上で最大の動機づけになった。

最後に全体を通して伝えたかったことをいくつかまとめておく。

1.胃がんは内視鏡による早期発見が比較的容易

○気になる場合は健康診断や胃がん検診などで定期的に検査を受けるとよい
○ただしがん検診にはメリットしかないわけではなく、たとえば「過剰診断」の問題などもあり、頻繁に検査を受ければいいというものでもない
○がん検診のくわしい説明は、がん情報サービス「がん検診 もっと詳しく知りたい方へ」(リンク)を参照

2.胃がんは早期に発見し治療した場合、5年生存率は高い(リンク

○専門医による適切な診断と治療(標準医療)を受けるのがもっとも重要

3.信頼できる医師を主治医にする

○検査の目的や内容、検査結果、それをふまえた治療方針について納得いくまで説明を受けることが信頼につながる
○一方、医師は多くの場合断定的な言い方を避けるので、説明のわかりやすさには限度があると理解しておく

4.名医は町の病院など身近なところにいる

○名前を広く知られていたり、肩書きのある医師だけが名医ではない

5.がんの治療を任せられそうな医師や病院をいろいろ探してもよい

○ただし標準医療(≒健康保険の範囲で受けられる治療)が現在の日本ではまず最善の選択と考えておく
○どの病院がいいかわからない場合、たとえば「がん診療連携拠点病院」(リンク)から探すとよい

6.ネット上の医療情報から、自分や家族などの具体的な病状を知ろうとしない

○個別の患者の状態をもっともくわしく知っているのは患者を直接診察した医師で、それをもとに的確な判断を下せるのも患者を直接診察した医師
○医師も人間なので診断をまちがえる可能性はあるが、だからといって自分の判断力を過信しない

7.自分や家族が病気を経験したとしても、それだけで自分がその病気について専門家に匹敵する知識を得られるわけではない

○自分の経験や医師から聞いた話は自分や家族など個別の事例についての情報という場合がほとんど
○一方、医師は多くの場合類似の症例をふくむ複数の患者を実際に診ていたり、論文や報告を通して知っているなど、背景にある知識の量が素人とはそもそもまったく異なる

8.ネット上の情報でも、政府の省庁など公的機関の出している情報は比較的信頼性が高い

○どういう組織や人物が発信している情報かをきちんと確認する
○専門家が実名を出していても、個人がSNSなどで発信している情報は独自の見解という可能性もある
○根拠の有無を確認し、根拠の書かれていない情報には十分注意する

なお、わたしは医師でもなければ医療関係者でもない。これはあくまでひとりの素人が自分の体験とそこから得た教訓をもとに書いたものなので、信頼性の高い医療情報と解釈することはまったくおすすめできない。気になる症状のある場合は、必ず医療機関を受診するようにしていただきたい。

だれにとっても健康がいちばんなのはまちがいない。とはいえ、病気はいつ襲ってくるかだれにもわからない。最後まで辛抱強く読んでくださった方の健康を祈るとともに、いまこの瞬間にがんにおかされている方がひとりでも多く幸運を手にされることを心から願っている。