見出し画像

争点のない総選挙2021~コロナ禍の中で

FEEL INVISIBLE MATTER(目に見えぬものを感じよ)

第49回衆議院議員総選挙は新型コロナウイルスのパンデミックが発生して以降、はじめての総選挙となった。わたしは「今回の選挙ではコロナへの対応が最大の争点になるのだろう」と予想していた。NHKの世論調査を見ても、2割の人が「新型コロナ対策」を最も重視する政策課題にあげている。

この世論調査によれば最も重視する政策課題として「経済・財政政策」と回答した人が33%でいちばん多い。ただやはりコロナ禍による不景気が回答に影響しているのは明白で、その意味で世間の関心を集めていたものはやはり景気対策などもひっくるめてのコロナへの対応と見ていいようにおもう。そうした世論を政党がくみ取れていないということはさすがにない。今回の総選挙にあたって各政党が出した公約類には経済政策、コロナ対策のどちらともなにかしらの形で盛りこまれているのが見てとれる。もちろん、内容については人によってさまざまな評価があるだろう。

ただメディアの報道、それからテレビの情報番組などのフィルターを通して選挙戦を観察していて感じた個人的な印象だけでいうと、経済政策が大きくクローズアップされていたように見えた。とりわけ、現金給付や減税など、どのような支援を行うかという点が取り上げられていた雰囲気だった。そしてこの風潮に対して先回りするように、財務省の事務次官が文藝春秋でバラまき批判を展開した。バラまき批判や財政規律云々といった主張そのものはなんらめずらしいものではないけれども、現役事務次官がメディアで持論を展開するのは異例で、センセーショナルに取り上げられた。

積極財政と緊縮財政が対立の軸になるという構図それ自体はべつにおかしなものではない。しかし今回の選挙における争点がこうした構図で語られることに対してわたしはかなり違和感を持った。そもそも今回の選挙で出てきた景気対策はコロナ禍による不景気への対策が名目になっている。つまり今回は、人流抑制や飲食店の営業規制に代表されるコロナ対策という「ムチ」があり、景気対策は「ムチ」のもたらすネガティヴな影響に手当てするための「アメ」として出てきているように見える。とするなら、「コロナ対策VS景気対策」という構図のほうが「バラまきVS緊縮」という紋切り型の構図よりも状況をより適切に整理できるのではないか。言いかえると、景気対策に対置されるべき論点は財政規律よりも、むしろ強力なコロナ対策(たとえばロックダウンを射程に入れた法整備、テレワーク推進、ワクチンパスポート、日本版CDCなどなど)ではないか。そう考えて、わたしは公衆衛生政策が今回は焦点になると見ていた。

ところがわたしがメディア越しに選挙戦を見ていたかぎり、公衆衛生政策が争点になっている気配はほとんど感じられなかった。多くの人がコロナ対策を重要な政策課題と認識していたにもかかわらず、メディア越しに選挙を観察するとコロナ対策はあたかも「ステルスモード」になったかのように存在感を失っていた。それではいったいなぜこんな奇妙な事態が起きたのだろうか。とにかく奇妙な事態が起きていたことは、わたしにかぎらず多くの人が認識していたにちがいない。しかし「なぜこんな事態になったか」となると人によって意見はさまざまのはずで、明快な説明が与えられる問題ではないようにおもわれる。どうしてコロナ禍に対処するための公衆衛生政策が今回の選挙戦で存在感を失っているように見えたのか――。以下ではこの問題について、いくつかの方向性から素人なりに検討してみたい。

仮説1:候補者たちは支持離れを嫌った?

最初に考えつくのは政治家や候補者が公衆衛生政策を積極的に語っていなかった可能性だろう。これは有力だとわたしも考える。では、この説を支持する材料にはどんなものがあるだろうか。第一に政治家は選挙の場面で有権者に負担を求める話を前面に出しづらいという傾向がある。やはり政党も候補者も出馬する以上は当選を目指している。よほど支持基盤が強固でもないかぎり、支持離れにつながりかねない話をすることに候補者が抵抗を感じるのは無理もないといえる。

とすると、国民に負担を求めることになるから公衆衛生政策は積極的に語られなかったのだろうか。その見方はやや単純にすぎると感じる。実際、各政党の公約類を見るとコロナ対策についてなにかしら主張はなされており、候補者の側からコロナの話題が出ていないわけでは決してない。たしかに街頭演説など有権者に対して直接語りかける場面ではあまり時間が割かれなかった可能性は一応考えられる。とはいえコロナ禍に今後どう立ち向かっていくかを政治家の口から直接聞きたい有権者が多かったことは疑いようがなく、候補者があまり語らなかった可能性はやはり考えづらい。

大体、政治家はいざ選挙になると有権者に聞こえのいい話をしたがるものだとわからないほど有権者だって無邪気ではない。事実、政治の側から景気のいい経済政策が語られるとバラまき批判や財政再建論がメディアの側から出てくる流れは、とりわけ第2次安倍政権以後の定番になっている。「候補者たちは公衆衛生政策を語って有権者の支持が離れるのをおそれた」という仮説は説得力を欠くようにおもわれる。

仮説2:コロナ対策でライバルを出し抜くのはむずかしかった?

それなら「政治家や候補者は公衆衛生政策を積極的に語っていなかった」説を支持する材料として、ほかにどんなものが考えられるだろうか。第二に、政治家は選挙の場面で対立候補との差が大きいほど優位性を主張しやすく、逆に差が小さいほど埋没しやすいという傾向がある。実際有権者からすれば、政党や候補者間の差がわかりにくいほどだれに投票するかの判断が困難になる。そしてだれに投票しても大きく変わらないなら聞いたこともない名前の人よりも名前だけでも知っている人、小政党より大政党、野党より与党、さもなければ棄権という結論になりやすいのではないか。おなじことを反対からいうと、候補者どうしの差が小さい場合、埋没の影響をより大きく受けやすいのは現職よりも新人、大政党よりも小政党、与党よりも野党、ということになる。後者が前者との差を出そうと(しばしば過激な)アピールをする構図が生まれやすいのには、おそらくこうした事情が反映されている。

では、公衆衛生の側面から見たコロナ対策について各政党はどんな主張を公約類に掲げていたのだろうか。個人的印象でいえば、そこまで差は大きくないと感じる。もちろん政党ごとにいくらかの差はあるけれど、たとえば憲法問題のような政策課題にくらべれば、差は小さかったといえるだろう。これは考えてみれば当然で、どの手法がコロナ対策に効果が高いか低いかは科学的に評価できる。「改憲か護憲か」「西側につくか東側につくか」「単独講和か全面講和か」のようにしばしばイデオロギーとの関係で語られる問題とは性質がまったく異なる以上、差を出せるものでもない。もっといえば少数派がコロナ対策で多数派との差を出そうとして「コロナは風邪」などと主張したり、科学的にまったく見込みのない手法の推進を訴えたりするのは危険ですらある。その点で主要政党の主張はいずれも、わたしが想像していたよりは常識的な範囲におさまっているように見えた。

コロナ対策をめぐってあまりにもあんまりな主張が飛び交い大勢の有権者が混乱させられる事態にならなかったという意味ではよかったといえる。同時に他党や対立候補との差をアピールする材料としてはコロナ対策は訴求力にとぼしく、結果としてあまり積極的には語られなかった側面もあるだろう。

岸田新政権発足の成り行き

さらに第二の法則「政治家はライバルとの差が大きいほど優位性を主張しやすく、逆に差が小さいほど埋没しやすい」は、政局の状況にも当てはまる。これを説明するため、衆議院が解散されるまでの流れを最初におさらいしておく。まず解散の直前に菅内閣の総辞職があり、そして岸田内閣が成立した。これは自民党の総裁が菅氏から岸田氏に交代したことに伴うもので、ちょうど前年に総裁が安倍氏から菅氏へと交代したときと形式上は同様といえる。しかし、今回の交代劇は前年の交代劇とは内容が大きく異なる。

そもそも前年の安倍首相辞任は安倍氏の持病悪化を原因とするものだった。これは第2次安倍政権が8年目に突入し安倍氏の「総裁4選」さえささやかれた中での、予想外の辞任だったといえる。そして間のわるいことに未曽有のパンデミックで世界中が混乱しており、本邦で政治空白が生まれることはどう見ても好ましくなかった。後継内閣にはこの危機にすぐさま対処することが求められた。そんな中で安倍内閣の総辞職後に成立した菅内閣は、閣僚の多くが前内閣からの再任や横滑りで占められ、第2次安倍政権の全期間を通して官房長官を務めた菅氏が安倍氏の臨時代理として緊急登板したかのような印象さえあった。事実、菅政権は安倍政権の方針を継承する姿勢を明確に打ち出していた。

一方、今回の菅首相退任も菅氏の総裁選不出馬が直接の原因だった。しかし当初、菅氏は続投に意欲を見せていた。ところが7月に入り、事態が急変する。東京五輪の開催を目前に控えてコロナ流行の第5波がはじまり、新規感染者数は爆発的な勢いで増加した。五輪開催をめぐって議論は紛糾し、結局ほとんどの会場で無観客とすることが決まった。そして東京に4度目となる緊急事態宣言が発令され、その後対象地域は拡大した。コロナの蔓延と逆比例するように、菅内閣の支持率は低下していった。さらに東京都議選や横浜市長選の結果も思わしくないもので、与党内でも菅氏の求心力が急速に低下していっただろうことも容易に想像できる。「菅氏は総裁選を先送りして解散に打って出るつもりではないか」――。そんな観測まで飛びだす中、最終的に菅氏は総裁選への出馬見送りを表明した。不出馬の理由について本人は「コロナ対策に専念したい」と語っているけれども、出馬を断念するしかない状況に追いこまれたのだろうとの印象はぬぐえない。

対する岸田氏は、菅氏が態度を表明するよりも前にだれよりも早く総裁選への出馬を表明した。経緯を考えれば、岸田氏が菅氏に挑む覚悟で出馬を表明したのはまちがいないだろう。そして、菅氏は次期総裁をめぐる争いから自身が離脱したあとも、総裁選では岸田氏ではなく河野氏を支持する意向を示した。さらに安倍氏も岸田氏ではなく高市氏の支援に回った。またそもそもの話をすれば、岸田氏の率いる宏池会は自民党内ではリベラル色の強い派閥とされる一方、安倍氏の出身派閥は清和会でこちらは保守色が強いとされる(なお総選挙後、安倍氏は細田氏に代わって清和会の会長に就任した)。ただしこうした事情からすぐさま「安倍氏と岸田氏の間には以前から因縁があった」と解釈するのは結論を急ぎすぎている。そもそも安倍氏は岸田氏を外務大臣や政調会長に起用した過去があり、以前から極めて険悪な関係にあったという雰囲気はとくになかったようにおもわれる。また前評判では河野氏の優勢が伝えられる中、第3極のように現れた高市氏と安倍氏が総裁選の構図を一気に複雑化させたのも事実で、安倍氏の姿勢を反岸田と見るのはやや単純にすぎる。ただ森友学園問題をめぐる岸田氏の発言などもあり、総裁選を通して岸田氏の姿勢が菅氏や安倍氏とは一線を画しているというイメージが強調される結果にはなった。

結局、岸田氏は総裁選に勝利し、岸田内閣が誕生した。もちろん第2次安倍政権・菅政権から岸田政権まで自公連立政権という大枠は変わることなく維持された。しかし、自民党総裁選の内容までふまえると前年とは対照的に、今回は自民党の内部で擬似的な政権交代の起こった様子が見てとれる。

仮説3:擬似政権交代が与党に影響した?

それでは、新体制の発足直後に早々と選挙に打って出た岸田自民党にとって、選挙戦でコロナ対策を積極的に語ることは選挙戦略上賢明といえるだろうか。決して賢明な判断とはいえないだろう。もし岸田自民党がコロナ対策を選挙の目玉にするなら、これまでの政府の取り組みへの言及はさけて通れない。とすると、岸田氏はこれまでの政府のコロナ対策をどう評価すべきか。「これまでの政府の取り組みはダメだった。自分ならもっとうまくやれる」という論の立て方は、いくら前政権との差異化をはかるための選挙戦略だとしても無理がある。第一に前政権のコロナ対策を批判する流れを助長しかねない。第二にコロナ対策は今後も自公政権の枠組みの中で一貫性と継続性をもって行われるのか、有権者に疑いを抱かせることにつながる。そして第三に正解のわからない中で未知の感染症に手探りで対応してきた過去の政権に「事後諸葛亮」のような批判を浴びせれば、岸田氏のイメージは相当に悪化するだろう。

岸田自民党がこれまでの政府のコロナ対策を否定するのは論外だとして、ならば「これまでの政府のコロナ対策でこれだけの成果が出ました」と胸を張って積極的にアピールするのがよいだろうか。選挙戦略としての側面だけを切り取るなら、それはそれでやはり得策ではないようにおもわれる。第一にこれだけパンデミックの規模が大きいと手当てが行き届かずに苦しんでいる人も多いことが当然予想され、成果のアピールはかえって反感を呼び起こすおそれもある。第二に成果をアピールしたところで評価を上げるのは菅政権や安倍政権で、岸田自民党への支持につながるとはかぎらない。たとえば前政権は新型コロナウイルスのワクチン接種を強力に推し進めたけれども、これを成果としてアピールしたところで株を上げるのは菅氏、そして菅政権でワクチン担当大臣を務めた河野氏だろう。将来の政局まで視野に入れたとき、これは岸田氏にとってあまりうれしいものではない。第三に自民党内での擬似政権交代で長期政権となった第2次安倍政権やその後継の菅政権からはひと区切りつける、というイメージこそが岸田自民党のセールスポイントであるところ、いくらコロナ対策の話だとしても、前政権の成果を不用意にアピールすればせっかくの強みに傷がつく危険すらある。

以上の議論をふまえると、岸田自民党にとってはコロナ関連の政策を選挙の目玉に据えることそのものがあまり賢明ではなさそうという結論になる。仮にコロナ対策に言及するにしても、あくまでこれからどのような取り組みをするかという将来を語る方向になるべく限定するのがよいことになる。たとえば「健康危機管理庁」構想などは象徴的だった。とはいえこの構想さえも10月の所信表明演説では言及がなかった。

「トーンダウン」と見る向きもあったようだけれども、この構想が呼び水となって選挙の争点がコロナ対策一色になるのを警戒した岸田氏が言及をさけた可能性を想像せずにはいられない。要するに、自民党内で擬似的に政権交代を行い前政権との差異化をはかったというセールスポイントを最大限に生かしつつ、前政権の否定にまでつながるような負の作用は極力抑える。そんな絶妙なさじ加減こそが、今回の選挙における岸田自民党の戦略だったのではあるまいか。そのように考えると、岸田氏と菅氏が官邸で会談したことの意味もはっきりと見えてくる。

会談の内容だけを見れば、岸田氏が前政権のコロナ対策に謝意を伝え、今後のコロナ対策についても菅氏に協力を求めたという、それだけの話にすぎない。記事の内容からは岸田氏が菅氏に相当な気づかいを見せている様子もうかがえる。しかしここで注目すべきは会談のタイミング以外にない。なぜ会談は選挙後に行われたのか。岸田氏と菅氏が顔を合わせるのは首相交代後では初とのことだけれども、なぜこの日以前に顔を合わせる機会がなかったのか。その理由もいまや明らかだろう。もし岸田氏が菅氏との関係修復をアピールすれば、自民党の中で擬似的な政権交代が行われたというイメージは薄れる。つまり会談を選挙前に実施した場合、岸田自民党は選挙を間近に控える中でせっかくのセールスポイントをみすみす手放すことになる。そうでなくても岸田政権については発足直後から「安倍傀儡政権ではないか」というような評価が散見される状況だった。仮に岸田氏が菅氏との関係修復を望んでいたとしても、そのための場を選挙前に設けていたら、標的を見失い攻め手を欠いていた野党勢力は息を吹き返していたにちがいない。

党外よりもむしろ党内にいるライバルとの差異化というキーワードを手がかりに読み解くとき、岸田新体制下の自民党はコロナ対策を中心に据えて選挙を戦う動機があまり見当たらない状況にあったとはいえるだろう。

擬似政権交代の影響は野党にも波及

岸田新政権発足の影響は、言うまでもなく野党にも波及した。たとえば日本維新の会が今回の選挙で獲得した議席は公示前の4倍近くに上った。この大躍進についても、擬似政権交代との関係からひとつの説明を与えることができるだろう。

実際、維新が安倍氏や菅氏と良好な関係を築いてきたことはよく知られている。この関係は維新にポジティヴな効果を(とりわけ大阪での府政・市政を進める上で)大いにもたらしただろう。他方で国政の舞台ではこうした関係も災いしてか、維新は自民党の補完勢力と見なされる場面も多かった。維新が国政選挙を戦うにしても、自民党の顔が安倍氏や菅氏では自民党との差をアピールするのに苦労したはずだし、選挙戦略のむずかしさが前回の総選挙での苦戦にもいくらか反映されているように見える。ところが今回岸田氏が総裁となり自民党内部で擬似政権交代が起きたことで、状況は一変した。岸田氏に「改革派」の印象がそれほどないことも維新にとっては好都合だっただろう。要するに今回の総選挙で岸田氏が前政権とのちがいをアピールしやすい状況にあったことと、維新が岸田自民党とのちがいをアピールしやすい状況にあったのは、ちょうどコインの裏表の関係にあるといえる。そしてこうした事情が維新にとっては追い風となったようにおもわれる。

一方、維新と対照的な結果になったのが立憲民主党(と日本共産党)だろう。立憲は共産との共闘路線を選択し、今回の選挙では政権交代を目標に掲げた。そして、多くのメディアも今回の選挙では立憲の議席増を予想した。ところが大方の予想を裏切り、立憲は議席を1割以上減らした。この立憲の敗北についても、やはり擬似政権交代との関係からひとつの説明を与えることができる。

立憲はこの数年にわたって安倍政権およびその後継の菅政権との対決姿勢を明確にし、安倍氏の覇権を終わらせることにひたすら注力してきた。しかし総選挙を目前にして自民党はリベラル色の強い岸田氏を総裁に選んだ。これまで対峙してきた安倍氏や菅氏は表舞台から姿を消し、新たに総裁となった岸田氏には安倍氏や菅氏のような色はついていなかった。岸田氏の登場は立憲のこれまでの戦略に根本的な方針転換をせまるものだったにちがいない。しかし立憲が選挙の直前になって政権交代と安倍・菅政権の終焉を目指す路線そのものを取り下げれば敵前逃亡のような印象を否めず、これはありえない。かといって標的を安倍氏や菅氏から岸田氏に切りかえようにも、岸田政権は産声を上げたばかりで政権のアキレス腱を見つけるのも容易ではない。解散をさせないように与党を牽制して、その間に相手の出方を見ながらウィークポイントを探すのはひとつの戦術ではあった。しかし今回にかぎってはそれも不可能だった。前回の総選挙から丸4年が経過し、憲法の定めによって10月に任期満了を迎える以上、選挙を先延ばしにしたくてもできない。こうなると選択肢はかぎられてくる。たとえば「今回の選挙は安倍・菅政権の是非を問うもの」というような論点を設定することで安倍氏と菅氏を目標としたこれまでの手法(いわゆる「モリカケ桜」の追及など)を継続する戦術、あるいは岸田氏に「安倍氏の傀儡」のような色をつける戦術などが考えられる。とはいえこうした戦術もかなり苦しいものに見える。そもそも前政権とのちがいをアピールすることが利益になるのは岸田氏も同様だった。現に岸田氏は(少なくとも選挙が終わるまでは)「安倍氏の傀儡」のようなイメージがつかないよう、かなり慎重なふるまいをしている印象を受けた。大体こんな状況では岸田氏が選挙戦の中で前政権の成果を真正面からアピールすることすらもむずかしかったにちがいない。そんなことをするのは、たとえるならすでにだれもいなくなったフィールドに向けて敵が弾を撃っているところに自分からわざわざ躍り出るようなもので、自殺行為に等しい。

維新の場合とは対照的に、擬似政権交代は立憲の選挙戦略を行き詰まらせ、議席を減らす方向に作用した様子がうかがえる。いずれにしても擬似政権交代というひとつのキーワードから、維新躍進と立憲議席減の両方をある程度うまく整理できるのではないだろうか。なお維新躍進や立憲議席減の背景にはほかにもいろいろな要素が考えられる。しかし選挙結果についてくわしく検討することは本エントリの主旨ではないので、これ以上は立ち入らない。

仮説4:野党もコロナ対策を選挙の目玉政策にしづらかった?

では野党勢力にとって、選挙戦でコロナ対策を積極的に語ることは選挙戦略上賢明といえるだろうか。やはり、賢明な判断とはいえないだろう。じつは仮説3で岸田自民党の事情について述べた論理は、野党側の事情にもある程度そのまま転用できてしまう。

野党勢力がコロナ対策を選挙の目玉にする場合でも、安倍・菅政権のコロナに対する取り組みへの言及はさけて通れない。といっても岸田自民党のケースとは異なり、野党が「これまでの政府の取り組みはダメだった。自分ならもっとうまくやれる」という論の立て方をしても、それほど問題は起きないだろう。ただし、政府のコロナ対策を批判したところでその矛先が向かうのはあくまで安倍・菅政権で岸田政権ではない。つまり、岸田自民党があくまで前政権との差異化を印象づける方針をとると、野党側がコロナ対策批判を展開したところで、岸田政権に対する優位性を効果的にアピールできなくなる。ましていかに野党が与党を批判する存在でも、無節操に「事後諸葛亮」のような批判を過去の政権に浴びせれば、ライトな支持層や無党派層の支持が離れる危険を無視できなくなる。たしかに一部野党のコアな支持層はそうした言説を求めているのかも知れず、コア層向けのアピールも必要なのかもしれない。とはいえそういう方面に安倍・菅政権批判の需要が依然あるとしても、それならたとえば「モリカケ桜」のほうがずっと訴求力が高く、また批判者側が「事後諸葛亮」のような悪印象を持たれるリスクもない。わざわざ安倍・菅政権批判のためにコロナ対策を引き合いに出すのは割に合わないようにおもわれる。

これが仮に、コロナの感染拡大がおさまらず緊急事態宣言を解除できる目途すら立たない中で選挙に突入していたなら、事情はまったく変わっていただろう。政府のコロナ対策の不手際がきびしく批判され、今後のコロナ対策と公衆衛生政策は確実に選挙戦の焦点になっていたにちがいない。ところが現実には本邦における新規感染者数は8月下旬をピークに減りはじめ、9月末には緊急事態宣言が解除された。ピーク時の8月から9月にかけて、1日当たりの新規感染者が連日のように5桁のレベルで発生していたのは本当だったのかと疑ってしまうような勢いで第5波は収束に向かった。リバウンドの懸念が示されつつも新規感染者数は順調に減少をつづけ、10月末には1日当たりの新規感染者数が全国で2桁に近い水準まで減少した。そして総選挙翌日の11月1日、新規感染者数はついに全国で2桁となった。なおこの日は月曜日のため値が小さくなりやすい点には注意すべきだろう(本邦における新規感染者数の推移については、厚生労働省「データからわかる-新型コロナウイルス感染症情報-」NHK「新型コロナウイルス特設サイト」を参照した)。

この夏本邦で猛威をふるったデルタ株はなぜここまで急速に収束したのか。政府が1日100万回を目標に掲げワクチン接種を強力に推進したことはその一因だろう。もちろんワクチン接種が感染抑制に実際どこまで影響したかという問題は、疫学調査によって今後検証されるべきことではある。ただワクチンの推進が実を結んだのだと多くの人に確信させるには、この結果は十分すぎるものだった。ワクチンとの因果関係はどうあれ、現実がこれでは「ワクチン接種を強力に推進した菅政権はまちがっていた」などと主張したところで、政治的にはなにひとつ訴求力がない。ワクチンに対する菅氏の姿勢を「一本足打法」などと批判する言説の散見されたのが、遠い過去のように感じられる。

以上の議論をふまえると、野党勢力にとってもコロナ関連の政策を選挙の目玉に据えることはあまり賢明ではなさそうという結論になる。ちなみに野党の中でも維新だけはやはり立ち位置が特異だった。維新はほかの野党とは異なり、松井氏や吉村氏が自治体のトップとしてコロナの対応にあたっていた。とりわけ吉村氏が大阪府知事として会見に応じる様子はテレビで連日のように流れ、吉村氏の知名度向上にかなり貢献しただろう。また吉村氏にかぎらずメディアが各都道府県知事の発言を引用するときは、自治体の取り組みを紹介しつつそこから政府のコロナ対策批判につなげる構成になっていることの多い印象がある。もちろん内容を細かく見れば、大阪のコロナ対策にはよい点もそうでない点もあり、単純には評価できないだろう。ただその是非についてはともかく、維新は経験に基づいてコロナ関連の政策を打ち出すことが可能だった。また政府のコロナ対策を批判するにしても、「事後諸葛亮」のような悪印象を持たれる可能性は低かったのではあるまいか。この点でも、維新はほかの野党より有利な条件にあったことがうかがえる。

仮説5:じつは有権者のコロナに対する関心が薄れていた?

ここまでは政治家が公衆衛生政策を積極的に語っていなかった可能性を検討してきた。次に視点を変えて、有権者の側がコロナ対策への関心を失っていた可能性を検討する。といっても、冒頭で紹介したNHKの世論調査を見れば、あらためて検討するまでもなくその可能性は否定できるようにおもわれる。ただNHKの世論調査は「衆院選で最も重視する政策課題」を選択肢の中からひとつだけえらぶ択一式のため、有権者全体のうちどのくらいの人がコロナ対策に関心を持っていたかを知るには十分とはいえない。そこで、今度は同様の設問で複数回答可能なアンケートの結果を参照する。

読売新聞の世論調査によれば、「衆院選でとくに重視したい政策や争点」に「新型コロナウイルス対策」をあげた人は70%に上る。「景気や雇用」「年金など社会保障」のほうが若干高い値になっているものの、有権者の多くがコロナ対策に関心を持っていた様子は、このアンケートからもうかがえる。

とはいえ、選挙期間をふり返ってみるとコロナへの関心を薄めるような材料がいくつか見られるのも個人的には気にかかる。第一に、9月以降は第5波が急速に収束へと向かい、9月末には緊急事態宣言が解除された。その後も新規感染者数は減少をつづけ、10月中はリバウンドや第6波の兆候すら見えなかった。第二にワクチンの接種が順調に進んだ。菅氏が5月末に1日100万回接種の目標を示した時点ではおもに人手の問題から不可能と見る向きも少なくなかったけれども、6月中には目標をあっさり達成した。そして7月に入るころには接種回数が順調に伸びすぎてワクチンそのものが不足し、目詰まりが発生した。このため7月は死亡リスクの高い高齢者への接種を優先し、それ以外の世代については8月から開始される方針が取られた。それでも接種を希望する人がなかなか予約を取れないこともめずらしくなく、こうした状況に不安や不満を感じる人の声もメディアでさかんに報じられていた記憶がある。加えて7月から第5波がはじまり、8月9月と新規感染者数が前例のない勢いで増えつづけたことも人々の焦燥感を煽ったにちがいない。しかし未曽有の混乱の中でもワクチン接種は順調に進んだ。2回の接種を完了した高齢者の割合は8月に入る時点で約8割、10月に入る時点で約9割に達した。全年齢で見ても、2回の接種を完了した人の割合は8月に入る時点では約28%だったのが、10月に入る時点では倍の約56%に達した(なおワクチンの接種回数と接種率については、政府CIOポータルに掲載されているデータを参照した)。そして10月に入ると、個別接種を行ってきた医療機関がワクチン接種の終了を告知する様子がちらほらと見られるようになってきた。また集団接種についても終了したり、会場を減らすなど規模縮小の告知をする自治体も現れはじめた。これはワクチンが希望者にある程度行き渡り、希望者へのワクチン接種の完了(2回)が視野に入りはじめたことを意味していた。

まとめると、7月から8月にかけて本邦ではコロナの感染拡大とワクチンの目詰まりが同時に発生し、だれもが嫌でもコロナを意識させられる状況だった。ところが10月になると頭痛の種だった問題はふたつとも解消された。こうなると世間の関心がコロナから離れたとしても、まったく不思議ではない。さて有権者は選挙期間中もコロナ対策への関心を持ちつづけていたのか。それとも当座の問題が解消されたことで、コロナ対策への関心もいくらか下がってしまったのか。どちらのシナリオが、より現実に近いのだろうか。そこで冒頭で紹介したものとはべつのNHKの世論調査を参照する。

総選挙のあとに行われたこの世論調査には「新型コロナウイルスの第6波の感染拡大に対する不安をどの程度感じるか」という設問がある。その回答は「大いに感じる」が34%、「ある程度感じる」が45%で、両者をあわせると約8割の人が第6波を不安に感じている様子がうかがえる。第5波の収束とワクチン接種の進行にともなって「嵐は過ぎ去ったのだから、もういいだろう」と多くの国民が考え、その結果有権者のコロナ対策への関心が薄くなった、という仮説はやはり説得力を欠くようにおもわれる。

仮説6:メディアはコロナ対策を積極的に取り上げなかった?

冒頭で述べたように、わたしは「メディア越しに選挙を観察するとコロナ対策はあたかも『ステルスモード』になったかのように存在感を失っていた」と感じた。その可能性をここまでいろいろ検討してきたけれども、「メディアを通して観察していたことが原因」という可能性も当然に考えられる。そこでメディアが公衆衛生政策を積極的に取り上げなかった可能性を検討する。

とはいえ、まともに検討することは非常に困難といえる。メディアと一口にいっても媒体もさまざまだし、テレビに限定してもテレビ局は複数存在する。さらに特定のテレビ局にしぼっても選挙の話題を取り上げた番組は報道番組から情報番組まで多岐にわたる。選挙期間中の放送内容をひとつひとつ詳細に分析するのは、わたしの手に余る。そもそも今回の話は「わたしがそのように感じた」という印象から出発している。あくまでぼんやりとした個人的印象にすぎない話を議論に乗せようとすること自体に無理がある。しかし、わたしがテレビを見ていて公衆衛生政策が争点になっている気配をあまり感じられなかったのもたしかだった。

このモヤモヤした感覚の正体はいったい何なのか。総選挙が終わってからもそんなことを考えつつ11月某日にテレビのニュースを見ていたとき、問題解決の糸口は突然あらわれた。番組が取り上げたのは、これまでコロナの流行状況を表すときに使われてきた「ステージ」による分類が改められ「レベル」による分類に切りかわるという話題だった。

このニュースの中で、新しい「レベル」の考え方について説明する尾身氏の映像が挿入された。わたしはテレビをぼんやりと見ながら「そういえば尾身氏の顔を見るのはひさびさだな」と感じた。次の瞬間、ぼやけていた視界が一気にクリアになった。尾身氏は選挙期間中、メディアにほとんど顔を出さなかったのではないか――。

仮説7:「ステルスモード」になっていたのは尾身氏だった?

それでは選挙期間中、尾身氏のメディア露出は本当に減ったのだろうか。この問題もまともに検討しようとすれば新聞記事やテレビ番組などをつぶさにしらべる必要があり、やはりむずかしい。しかし、この仮説を直接間接に支持する材料は複数見つかる。

1.Googleトレンド
手はじめにGoogleトレンドを使って尾身氏がどの程度検索されているかをしらべる。過去1年間の推移を見ると、トレンドの上下はコロナの流行状況を完全になぞっている。事実、8月下旬から9月上旬にかけてのトレンドのピークは、第5波のピークとおおむね重なる。その後は10月末ごろまで下がりつづけ、選挙期間中の10月下旬は低い値で安定している様子が見てとれる。過去1年間で瞬間的に低い値になっている時期はあるものの、これほどの低い値が1か月程度にわたって継続している期間は10月以外に見当たらない。

2.Googleニュース検索
次に尾身氏について言及した記事や報道などがWeb上にどのくらい存在するか、Googleニュース検索でしらべる。検索するときに記事の書かれた期間を指定できるので1か月ごとに区切り、さらに日付順に並べかえて表示される件数を数えていく(検索のキーワードは「尾身茂」とした)。すると8月は200件以上、9月も200件程度の記事が見つかる一方、10月はなんと30件程度にとどまった。これが11月に入るとふたたび70件程度まで増加する(ここまでの件数は11月26日時点のもの)。10月は尾身氏がネットで検索されている回数だけでなく、尾身氏について言及する記事の数自体が一気に減少している様子が見てとれる。

ただGoogleのニュース検索は、尾身氏とそれほど関係のない記事でも文中にとにかく「尾身茂」というキーワードが入っているものを拾っている可能性も考えられる。そこで、検索結果をもうすこし細かく分析する。10月に公開された記事のうち、尾身氏本人の動静を伝えた記事はどのくらいあるのか。すると尾身氏が岸田首相と会談したときの記事が見つかる。

ここでは一例として、時事通信の記事を紹介したけれども、この会談については日経産経、それからTBSも報じている。それ以外では「日経・FT感染症会議」に出席したという記事があった程度で、ほかにこれといったものは見当たらない。動静以外に尾身氏のインタビュー記事をふくめると、朝日新聞の記事中央公論の記事が見つかる。しかしそれらをふくめても記事はせいぜい10本程度にとどまる。

この検索結果だけを見ても、尾身氏の動静が取り上げられたり、尾身氏がメディアの取材に応じたりする機会が10月だけは極端に減少していることがわかる。

3.国会質疑
ここからは視点を逆転させて、尾身氏の発言をメディアが頻繁に取り上げていた時期をふり返ってみる。人によって連想される場面はさまざまだろう。たとえば菅氏が官邸で記者会見を開くとき、菅氏の横に尾身氏が立っていて記者からの質問に答える場面は何度もあった。ただ尾身氏の発言に注目が集まったのは、やはりオリパラをめぐって世論が紛糾していた時期だろう。「普通はない」発言やIOCバッハ会長の再来日に苦言を呈した発言などはとくに印象深い。それまで尾身氏が強い表現を交えて話す様子はあまり見られなかったこともあり、賛否両論が巻き起こった。

ところで、これらの発言はいったいどのような場面で飛びだしたものだろうか。いずれも尾身氏が国会に参考人として出席するなどして、委員(国会議員)の質問に答える場面での発言だった。つまりメディアは尾身氏の国会での発言から使いやすい下りを切り出して報じていたことがわかる。そうした行為の是非については、ここでは論じない。いずれにせよ、尾身氏の国会質疑への出席はメディアに話題を供給する装置としても機能していた実態がうかがえる。では、尾身氏はどのくらいの頻度で国会質疑に出席していたのだろうか。

そこで「国会会議録検索システム」でしらべてみる。発言者名を「尾身茂」にして検索すると、2020年以後では95件見つかる。それ以前にも3件見つかるけれども、尾身氏の国会質疑への出席は大半が新型コロナの発生以後に集中している。2020年の3月から毎月のように出席があり、これは月1などではもちろんなく、10回以上出席している月もある。また国会の常会(通常国会)には会期が設定されているけれども、会期の済んだあとにも閉会中審査があるため、尾身氏はほとんど年中国会質疑に出席しつづけていることがわかる。たとえば2021年だと、会期終了後の7月から9月にかけても尾身氏の出席した委員会が検索結果に現れる。ところが頻繁に見られた尾身氏の出席が、9月16日の参院厚労委を最後に途切れる。これはひとつには衆議院の任期満了がせまる中で菅氏が退陣を表明するなど政局に動きがあり、閉会中審査もふくめ国会質疑の多くを停止せざるをえない状態になった可能性がまず考えられる。また10月14日には衆議院が解散され、その後は総選挙が終わるまで国会で質疑をやっていられる状況ではなくなった。いずれにせよ9月16日以後、尾身氏が国会質疑で発言をする機会はなくなった。これはメディアにとっては尾身氏の発言を拾える機会が失われたことを意味する。

こうなると仮にメディアが選挙期間中に尾身氏の発言を取り上げたかったとしても、肝心の素材が供給されない以上は取り上げようがない。尾身氏がメディアに登場する機会も当然減らざるをえなかっただろう。

4.緊急事態宣言の解除
さらにメディアが尾身氏の発言を頻繁に報じていた時期をふり返ると、コロナの感染が本邦で急拡大し緊急事態宣言が発令されるなど、緊迫した状況にあったことも連想される。とくに緊急事態宣言の発令、解除、延長、対象地域の追加と除外などが発表される場面では、尾身氏が会見を行うのが通例だった。

ところで政府が緊急事態宣言を発令するときの手順はいったいどのようになっていたのだろうか。詳細はわからないので省くけれども、事前に分科会に諮って専門家の意見を聞き、了承を得た上で発令されているように見える。

また発令にかぎらず、解除、延長などもふくめ同様の手順を踏んでいることが、新聞記事の文面からも確認できる。そして分科会での諮問が終わると分科会会長の尾身氏と西村大臣が会見を開いて方針を説明する、というのが大体の流れだったようにおもう。

緊急事態宣言は無期限ではなく期限を切って出されることになっているので、一度発令されると延長にせよ解除にせよ、期限がせまってくるたびに分科会を開く必要がある。そしてその都度、尾身氏と西村氏が会見を開いて方針を説明することになる。つまり緊急事態宣言が発令されているかぎり、尾身氏は会見を開いてメディアの前に定期的に出なければならないことになる。おなじことを反対からいうと、緊急事態宣言が発令されているときはメディアが尾身氏の発言を拾ったり、会見で質問したりする機会が増えるということでもある。

一方、猛威をふるっていたはずの第5波は9月に入ると急速に収束へと向かい、7月に出された緊急事態宣言は9月末で解除される運びとなった。そしてその後も新規感染者数は順調に減少しつづけ、緊急事態宣言の再発令など検討の必要すらないほどに落ち着いた状況が保たれた。こうなると尾身氏が分科会会長として会見を開く理由はなくなり、したがって尾身氏がメディアに登場する機会はさらに減少することになる。

以上4点をまとめると、この選挙期間中、尾身氏に関する報道が減ったのはおそらく事実だろう。同時にこの選挙期間中に、メディアが尾身氏の発言を取り上げにくくなる条件が複数重なったとはいえる。そう考えると個人的には、メディアがあえて報道しなかったという説よりも、話題がないので言及したくてもできなかったという説のほうに説得力を感じる。

仮説の上に仮説を塗り重ねる

選挙期間中に尾身氏のメディア露出が減ったという仮説は、たんにわたしの個人的な印象の範囲にとどまるものではなく、それを支持する材料が複数確認できた。そこでこの仮説は認めるとして、このことはメディアの選挙報道にどのような影響を与えうるだろうか。

大手のメディアはそれぞれ自社で世論調査を行っており、有権者の多くがコロナ対策のゆくえに関心を持っていることも当然把握していたにちがいない。そうなるとメディアは読者視聴者の需要に応えるため、これからの政治にどのようなコロナ対策を期待するか、専門家に意見を聞いて紹介しようとするだろう。では公衆衛生政策について専門家の意見を聞くとして、その意見の影響力と訴求力がもっとも強い専門家はいったいだれだろうか。本邦で尾身氏の右に出る者はいないだろう。尾身氏については支持する人も批判する人もいるけれども、この点では両者の認識は一致するのではないだろうか。尾身氏はWHOでの豊富な経験があり、公衆衛生の専門家であることに疑いの余地はない。しかし、とりわけ東京五輪開催をめぐって本邦の世論が紛糾していたとき、大会開催に懸念を示す発言や行動(「専門家有志の会」として提言書を出し、記者会見を開いた)が取り上げられ、「医療重視」を強硬に主張する人物というようなイメージが相当に強まった。そんな人物が公衆衛生政策のあるべき姿について語れば、それがたとえ一個人の見解にすぎないとしても支持派批判派の双方が入り乱れ、大変な議論を巻き起こすことになるのは目に見えている。いずれにせよ、尾身氏の発言にコンテンツ力があるのは明らかで、メディアに取り上げない理由はない。

その尾身氏がメディアの前に姿を見せる機会は10月に入ると激減した。もちろん公衆衛生政策について語れる専門家は尾身氏だけではないし、メディアは尾身氏以外の専門家からも公衆衛生政策についての意見を聞き、論点として紹介してはいただろう。しかし、だれであれ尾身氏に匹敵するレベルの知名度を持つ専門家などいるはずがなく、したがって尾身氏以外の専門家が、公衆衛生政策についての議論を呼び起こす起爆剤となることはやはりむずかしいだろう(なお西浦氏なら一応可能性はあるかもしれない)。こうなると、メディアが公衆衛生政策を積極的に取り上げること自体むずかしくなる。仮にメディアがコロナ対策を選挙戦の争点として取り上げたところで、いちばんのキーパーソンを欠いた状態では印象は薄くならざるをえない。

そのように考えると、尾身氏の不在がメディアの姿勢にもたらした影響はあんがい小さくなかったのではないだろうか。

仮説8:尾身氏は自分の意思で露出を減らした?

選挙期間中に尾身氏のメディア露出を減少させるような条件が複数重なっていたことはすでに見た。こうした条件が重なったこと自体は偶然の産物だろう。ところで、尾身氏本人になにかしらの意思表明をしたいという積極的な考えはあったのだろうか。実際の行動を見るかぎり、あまりそのような雰囲気は感じられない。たしかに、朝日新聞や中央公論のインタビューに応じているところを見ても、メディアの前から完全に姿を消していたわけではない様子はうかがえる。少なくとも時期遅れの夏休みを満喫していたとか、そういう話ではないだろう。

しかし、かといって尾身氏の側から積極的にメッセージが発信された様子もそれほど確認できない。たとえば、尾身氏は8月30日にインスタグラムのアカウントを開設した。ハッシュタグで意見を求めたり、インスタグラムでライブ配信を行ったりしたことは大変な話題を呼んだ。ところが9月23日以後、インスタグラムの更新は停止状態となった。ほかにも、尾身氏がメンバーとして参加する「専門家有志の会」のnoteのアカウントも9月1日以後、更新が停止状態となった。なお、このnoteのアカウントは尾身氏の個人アカウントではなく、これまでに尾身氏以外にも複数の専門家が記事を投稿している。しかし尾身氏以外のメンバーからの投稿もふくめ、このアカウントは更新停止の状態となった。こうした尾身氏の「沈黙」については多くの人が気づいていたようで、たとえばJ-CASTニュースが記事にしている。

選挙期間中はメディアが尾身氏をあまり取り上げなくなったというだけにとどまらず、尾身氏が自分の意思で発信できるメディアの更新も止まっている。これはやはり不自然に見える。

第一に、本邦は第5波を乗りこえ緊急事態宣言の解除までどうにかこぎつけた。一時は「専門家有志の会」が東京五輪開催について提言書まで出すほどの深刻な状況だった。そう考えると第5波収束のタイミングで、「有志の会」からなにかしらメッセージの発信があってもおかしくなかったように感じる。第二に、「有志の会」はオリパラの開催について深刻な懸念を表明していた。ところで2021年は、オリパラ以外にも全国各地で人流の大幅な増加が予想されるイベントを本邦は控えていた。そのイベントとは、総選挙にほかならない。選挙期間がはじまると政治家たちが応援演説のために全国を駆け回り、また演説の場には有名政治家の顔見たさに、支援者からアンチまで多くの人々が集まる。また投票の行われる場所も室内で、やはり人の密集が予想される。もちろん、こうしたリスクを理由に選挙をしなくていいわけではない。とはいえ感染拡大のリスクという意味では、オリパラに勝るとも劣らないリスクが総選挙にはあったにちがいない。そうでなければ任期満了の間際まで解散が先延ばしにされる事態になっていないし、菅内閣のもとでもっと早くに解散総選挙が行われていただろう。ところが、オリパラについてあれだけ深刻な懸念を示した専門家から総選挙についての懸念なり、選挙期間中の人流抑制や投票所での密をさけるための具体的な提言などは聞こえなかった。といっても、たとえば総務省は投票日に投票所が密になることをさけるために期日前投票の利用を呼びかけていた。また各地の投票所でもコロナ対策は取られていた様子で、総務省や各都道府県の選挙管理委員会などが専門家からの助言をなにかしらの形で受けていた可能性は十分に考えられる。

しかし、専門家側からもこうした点について注意喚起があっておかしくなかったように感じる。そのように考えると、尾身氏の露出が減ったのは偶然ではなく、本人の意思もある程度関わっていると見るのが妥当のようにおもわれる。

「ステルスモード」の理由

それでは露出の減少は尾身氏本人の意向でもあったという仮説を認めるとして、いったいなぜ尾身氏は「ステルスモード」になったのだろうか。

一部には、尾身氏は批判から逃げ回っているなどと主張する声もある。たしかにコメント欄の設置されているニュースサイトなどを見ると、尾身氏のニュースには個人攻撃のようなコメントが並んでいる様子が目立つ。また尾身氏のインスタグラムを見ても、1か月以上も前の投稿に攻撃的なコメントがさかんにつけられている様子が観察できる。どちらも判で押したような文面のコメントで占められているのは傍目には不自然さ以外に感じられないけれども、あの叩かれ方を見ると「逃げ回っている」説にも一理ありそうな気がしてくる。

しかし、この見方はやはり表面的にすぎるだろう。事実11月に入り、尾身氏がメディアの前に姿を見せる機会はふたたび増加している。とすると、尾身氏の「ステルスモード」は選挙期間中に限定のものだったのだろう。ここまでくると尾身氏「ステルスモード」の理由がうすぼんやりと浮かびあがってくる。尾身氏が選挙期間中に露出を減らしたのは、自身の発言が選挙の情勢に与える影響を極力減らすためではないだろうか。少なくとも自身の発言が特定の政治勢力に有利、ないしは不利に働くことの危険性を知らないほど、尾身氏が注意力のない人間とは考えられない。実際、尾身氏のような専門家が世間の信用を得るためには、自身の専門性のみによって(つまり党派性に基づく判断などは極力排して)助言を行うように努めていると多くの人に認められる必要があるわけで、その前提がなくなれば信用は崩壊する。

こうした信用の重要性を物語る事例として、パキスタンやアフガニスタンにおけるポリオワクチンの接種プログラムがある。ポリオについてはWHOが全世界での根絶を目指し、そのための取り組みが長年進められてきた。その結果、2020年にアフリカでも根絶宣言がなされ、残るはパキスタンとアフガニスタンの2か国となった。

ところでこれらの国では予防接種に関わるスタッフがテロの標的にされることがめずらしくない。これは外国人の医療関係者たちがスパイではないかと疑われることがよくあるからだけれども、彼らは理由もなくスパイの疑いをかけられているわけではない。じつはCIAが偽の予防接種プログラムを行い、ビンラディンの居場所を突き止めようとしたことが過去にあった。その影響で、本物の予防接種プログラムまで疑いの目で見られるようになり、予防接種のための活動に支障が出る事態になっているという見方がある。

ポリオをめぐるパキスタンやアフガニスタンの事情について、尾身氏が知らないはずはないだろう。事実、尾身氏がWHOでポリオの根絶に取り組んできたことはよく知られている。専門家としての信用をなくすことが文字通りの命取りになりうると、尾身氏は身にしみてわかっているのではないか。

そうでなくても、尾身氏の発言は政治的に利用されることが多かった。たとえば尾身氏がメディアの前に姿を見せるようになった最初のころは「御用学者」などと批判される場面が目立った。これはおそらく、安倍氏や菅氏の会見に同席した尾身氏が記者たちの質問から首相をかばっているように受け止められたことが大きかったのだろう。他方、GoToトラベルやオリパラ開催について尾身氏から慎重な発言が出てくるようになると、一転して「政府にもの申す専門家」のように言及される場面が目立ちはじめる。尾身氏に対するこうした評価の反転は政権に批判的な人だけでなく、政権を支持する人のあいだでも観察された。このような状況で尾身氏が選挙期間中にうかつな発言をすれば、「党派性にもとづいて話している」と解釈されかねない。さらに発言が特定の政党への評価や批判と解釈されれば、選挙情勢に影響を与えるおそれもある。オリパラをめぐる発言でさえかなりの物議を醸したけれども、選挙に直接影響を与えればもはや言い逃れができない。こうなると、尾身氏としては選挙期間中は可能なかぎり黙っている以外にないだろう。

なお、尾身氏は朝日新聞や中央公論のインタビューには応じており、完全に沈黙していたわけではない。他方、これらは最終的に記事にはされたものの、インタビューの模様が映像として公開されたわけではない。つまりテレビの報道番組や情報番組が尾身氏の見解を取り上げるにしても本人のVTRを使用することはできず、テロップやフリップで示す以外にない。いずれにせよこれらのインタビュー記事はそこまで訴求力のある素材とは考えられず、少なくともテレビのような映像媒体での発言にくらべれば、影響はかなり小さかったのではないだろうか。

それから念のためつけ加えると、わたしは尾身氏に一切の党派性がないと主張するつもりはない。ただ尾身氏は、専門家が専門家として発言をする場面では自身の専門性のみに基づいて話をするべきという原則を十分理解しているはずだし、また少なくともわたしがこれまで見てきたかぎりでは、尾身氏はおおむねこの原則の範囲内で発言をするように努めているとはおもっている。

消えた争点~すべて閣下の仕業?

コロナ禍がはじまってから初の総選挙で公衆衛生政策が存在感を失っているように見えた原因について、ここまでさまざまな角度から検討してきた。結論としては冒頭に書いたとおりで、明快な説明が与えられる問題ではないとわたしは考える。つまりどの仮説にもっとも説得力があるかという議論にはおそらく意味がなくて、複数の条件が重なりあった結果、公衆衛生政策の存在感が薄れたというのが実際のところだろう。

それでは、公衆衛生政策が今回の選挙における争点にならなかったことは果たしてよかったのだろうか。これもなかなかむずかしい問題だといえる。単純に考えると、あまりよかったとはおもえない。そもそもコロナパンデミックがはじまってから初の総選挙で公衆衛生政策が争点にならないなら、いったいいつ争点になるのだろうか。たしかに、コロナ対策の有効性についてはある程度科学的に評価できる以上、各政党がコロナ対策でライバルを出し抜くのはむずかしいかもしれない。他方で、仮に有効性が科学的に証明された対策だとしても、それを実行に移すかどうかで意見が分かれる場合もある。とりわけロックダウンのように私権制限をともなう対策については、いろいろな意見が出るのは当然といえる。こうした強力な対策を本当に実行するのか、最後は政治で決める以外にない。とすると、万が一政治的決断の必要な局面が訪れたとき、選挙による審判を受けていない政権では強力な対応を取りづらいにちがいない。実際、仮に真正面から公衆衛生政策の重要性を訴えて選挙を戦い、有権者の負託を受けて成立した政権が公約どおりに強力な対応を取るなら、国民もまだあきらめがつくだろう。反対に、そうした点がうやむやにされたままなんとなく政権が成立してなんとなく決断を下されたのでは、納得できないという人がやはり多いのではないだろうか。もちろんどちらの場合でも国民から不満の声が出るのは目に見えている。とはいえ、選挙で正面から政策を訴えたかどうかで政府がどこまで強気に出られるか、あるいは国民がどこまで許容できるかの範囲がそれなりに変わってくるようにおもわれる。そう考えると、公衆衛生政策が争点にならなかったのは、個人的にはあまり歓迎できないものを感じる。

とすると、公衆衛生政策は今回の選挙における争点になるべきだったのか。そうとも言い切れない。実際、もし公衆衛生政策が争点になったら、選挙戦はそれ一色になっていた可能性がある。いくら公衆衛生政策が重要な争点だとしても、争点がそれだけになるとやはり害も大きい。たとえば2005年の総選挙では郵政民営化を掲げて解散総選挙をしかけた小泉自民党が圧勝した。その結果郵政民営化は進められることになった。とはいえこの問題の道筋がついた時点で衆議院の任期が終わるわけではなく、国会ではその後も自民党が多数を占めつづけた。この状況に対して「有権者は郵政民営化以外の問題についてまで自民党にフリーハンドを与えたわけではない」という批判や、「自民党を勝たせすぎたのではないか」という意見が上がりはじめる。そうしたことの影響もあって、2009年の総選挙で自民党は政権を失い、民主党政権が誕生する結果となった。争点がひとつに集中する選挙(いわゆる「シングルイシュー」の選挙)は、選挙が終わった直後だけを切り取れば特定の政策を強力に進めやすい一方、その問題が片づいてしまうと政権の正当性に疑問符がつけられるなどして、政局を不安定化させる危険をともなう。

他方で公衆衛生政策が争点になったとしても、それ一色にはならない可能性も十分にあるだろう。その場合は公衆衛生政策と同時に経済対策や補償が争点になってくるにちがいない。世論がコロナへの対応を求めている以上、両方が争点になってもとくに不思議はない。しかし、両者が対立関係となり選挙戦が「医療か経済か」の二者択一のような構図になれば、べつの問題が生じてくる。事実、メディアは医療と経済の関係を二者択一のようにとらえている節がある。たとえば2020年の年末、コロナ流行の第3波がはじまりGoToトラベルの中止がささやかれはじめた。メディアはGoToトラベルが継続されているあいだは、感染拡大や医療逼迫を懸念する声を取り上げていた。ところが政府がGoToトラベルの中断を決定すると、一転して旅行会社や宿泊施設にキャンセルの電話が殺到している、年末年始の需要に期待していた観光業界が途方に暮れている、という切り口の報道が目立ちはじめた。まずメディアの姿勢が無定見という批判は可能だけれども、その点はひとまず措く。むしろこうした極端な報道の問題とは、医療と経済が二者択一の関係にあるという構図を設定し、世論の分断を不必要に深めかねない点にあるのではないだろうか。このように過去のメディアのふるまいを見ると、仮に公衆衛生政策と経済政策が選挙の争点になったとき、メディアが両者をあたかもトレードオフの関係にあるかのように取り上げる可能性は十分考えられる。そうなると、コロナ対策をめぐって各政党までもが他党との差を出そうとして「白か黒か」のような極端な主張に走り、世論の分断を深刻化させるおそれがある。

さらにいうと、もし選挙戦が「公衆衛生政策VS経済政策」の構図になれば、経済政策重視を主張する勢力に軍配が上がった可能性は高いだろう。事実、冒頭のNHKの世論調査を見ると「経済・財政政策」にもっとも多くの回答が集まり「新型コロナ対策」はその次に多い。これはすこし考えてみれば当然の話で、コロナが感染拡大の局面にあるときは医療を重視する人が多くなり、反対にコロナが落ち着いているときは経済を回すべきと考える人が多くなるのはあたりまえだろう。なおかつコロナが感染拡大の局面にある状況では解散どころではないのだから、総選挙をするならなるべくコロナの落ち着いた時期がえらばれるだろう。ということは、選挙戦が「公衆衛生政策VS経済政策」の構図になった場合、ほぼ必然的に経済政策重視を主張する勢力の勝利が予想される。仮にこのシナリオのとおりに進行すると、公衆衛生を重視する勢力は選挙で敗れることになり、政治は医療度外視で経済政策へと突き進んでいくだろう。そしてこのシナリオこそ、尾身氏が何をおいても回避したいものだったにちがいない。

選挙が終わったいまでは、公衆衛生政策が今回の選挙における争点にならずに済んでよかったのではないか、という考えにわたしは傾いている。たしかに、今回の選挙は公衆衛生政策が争点になっている気配のほとんど感じられない奇妙な選挙ではあった。しかしその裏側で、選挙をきっかけに世論の分断が表面化するという最悪の事態は回避された。そしてこれまでの尾身氏の言動をあらためてふり返ってみると、やはりさまざまな評価はあるものの、世論の分断を激化させないようにかなり注意深く発言する場面が総じて多かったように見える。そう考えると、不意に今回の選挙が「すべて閣下の仕業」だったように見えてきて、わたしは底知れぬおそろしさを感じずにはいられない。