【アンカーの思い出】(10)青山繁晴氏を分析する

*本エントリは青山繁晴氏のファンを不快にさせるおそれのある記述を含んでいます。ご注意ください。

わたしが青山氏に感じてきた「引っかかる」点について、これからわたしなりの分析を書いていきたい。なおわたしがそれなりに知っている青山氏の出演番組はアンカーだけなので、それ以外の場面に対してもこの観察が一般化できるかはよくわからない、ということはあらかじめ申し上げておく。

課題はいくつかあるのだが、ひとつは前々回に軽く触れた点で手短に言うと、「確からしさを判断するのが困難な情報が視聴者に示されることが多い」という点である。「ズバリ」では青山氏独自の取材源からもたらされた情報が紹介されることが多かった。しかしこの情報の確からしさについて、視聴者は基本的に評価することができない。したがって「その情報をブラックボックスとして認める」という操作がどうしても必要になるのである。もちろん青山氏の独自情報をもとに解説するというのが、「ズバリ」のそもそものコンセプトである以上この問題は避けられないことでもある。またテレビだけではなくその他の媒体や、あるいは青山氏本人の講演会などに参加すれば、情報の確からしさについて、テレビでは知ることのできない何かしらの手応えを得られる可能性は否定できないだろう。ただいずれにしても「ズバリ」を視聴するにあたり「情報を信用する」というステップを要求されることは確かである。そしてこのため、それを前提とした青山氏の提言や分析についても評価は難しくなる。これが第1の課題である。なお「情報を信用する」ことを要求するのは、どんな報道番組や情報番組であっても多かれ少なかれ持っている性質であることは事実である。ただし多くの場合において、そういう情報は公刊情報であるとか、あるいは映像が存在するなどしており、視聴者は何らかの方法で情報をたどることが(ネットの普及した現代では比較的容易に)可能である。他方「ズバリ」の情報はそうした「トレーサビリティ」が確保されていないことが少なくないため、問題の次元が異なるという点は指摘しておきたい。

課題の2点目は「時間配分が上手くない」という点である。「ズバリ」では時間が不足するのが毎回の恒例だった。青山氏の語るところによれば、講演会などでは6時間に及ぶこともあるそうなので、いろいろ話が尽きないのだろうし、視聴者に対するサービスでもあるのだろう。しかし時間を長く取れば視聴者が話を深く理解できるとは限らない。むしろ時間をある程度細かく区切って各セクションごとにテーマを絞り、要点を整理しながら話す方が時間の節約になるし聞く方も集中しやすいのである。ところが青山氏の話し方は、これとほぼ正反対であると言ってよい。つまりいろいろな情報が紹介されるのは良いが、前半はディテールを述べる意味があるのかどうかよくわからないことについてやたら詳細に語られることが少なくない。たしかに、たとえば取材をするまでの経緯や、取材相手の態度、口調、仕草などについて詳細に語ることで情報本体にある種の「厚み」を持たせる、という効果は期待できるだろう。しかし前段落でも述べたように、そもそも「トレーサビリティ」が十分に確保されていない情報であるならば、言葉は悪いが何をつけ加えたところで視聴者は結局「情報を信じる」以外に無いわけである。したがって、詳細を語る必要性の感じられない情報に時間を使いすぎているというのがまず1点。

そして前半の時間がそうしたことの説明に費やされるため、後半がいつも駆け足になり、最後の要点を述べるべき時間にすべてしわ寄せが来ることになる。結果として、その日の主張や結論が何だったのか、よくわからないまま時間切れになってしまう。最後の結論が一番大事なのだから、それを述べるためにしっかり時間を割り当てるべきだとわたしは考える。時間的にきびしかろうと何だろうと、結論は一番に優先されなければならない。時間に追われて慌ただしく結論を述べていては、話が耳に残らないからである。一方青山氏は時間が足りないと言いつつも、話が横道に逸れることが少なくない。これが要点のつかみにくさに拍車をかけている。重ねて言うが、これはいろいろな話題を提供したいという青山氏のサービスでもあるのだろう。それは理解する。しかし情報の取捨選択は絶対に必要である。敢えてきびしいことを言えば、あれもやってほしい、これもやってほしい、という要望を全部受け入れることは不可能だし、また言われるがままに受け入れてはいけないのである。場合によっては省略するという決断も必要であるとわたしは考える。

以上が第2の課題である。予定よりも長くなってしまったので、ここで一度区切ることにする。(第11回に続く)

(※この文章は筆者の個人的な回想であり、事実を正確に反映したものであるとは限りません。)