医療コミュニケーションとコクーン戦略
わたしがツイッターに書いた数年前の投稿がどういうわけか最近になって拡散された。幸いにも過去の放言を晒されたとかではなく、とくに不都合はない。とはいえいったいどんなきっかけで地味なアカウントの投稿が数年越しに発掘されたのかは気になるので、検索するなどしていた。残念ながら手がかりは得られなかったものの予想外の収穫があった。なんと、この件とはべつのツイートがブログに引用されていた。
このブログの筆者は薬剤師の方で、わたしとは以前からツイッター上で相互フォローの関係にある。まったく知らない相手に引用されたのではないのでその点は安心できる。また内容も医療コミュニケーションのあり方について医療従事者の視点から述べるもので素直に参考になる。むしろ、このような文書の冒頭にわたしのような医療従事者でもなんでもないド素人の発言が使われているのはありがたくも恐縮な感じがする。ただ感謝だけで終わらせるのはもったいない気がするので、当該ブログで言及されている医療とコミュニケーションの話題について素人の雑感を少し書いてみたい。
コロナ下の医療コミュニケーション
新型コロナウイルスのパンデミックがはじまってから、わたしのような一般人がコロナにかかわる情報を目にする場面は急増し、いまや日常の一部になった。政府や専門家がコロナ対策、具体的には手洗いの励行、マスクの着用、ワクチンの接種などの効用を発信し人々の協力を求めるのはいちばん代表的な場面といえる。日々の新規感染者数や重症者数、病床使用率などが発表される場面も当てはまる。またそのようなデータにもとづいて今後の感染者数の推移を予測し、対策の強化や緩和を提言するといった場面、さらに視野を広げるとコロナについての誤った情報やデマ、ディスインフォメーションが訂正される場面もふくまれるだろう。
専門家や医療従事者の人たちにかぎらず一般の人でも、コロナの情報に一切ふれることなく暮らすのは事実上不可能といえる。他方で専門家や医療従事者の人たちとはちがって、わたしのような素人は医学的な知識をもっているわけではない。それどころかコロナ以前の「ウイルスとはなにか」「細菌とウイルスはどうちがうか」「mRNAとはなにか」などの質問にきちんと答えられる人すらかなり少ないにちがいない。コロナの情報が一般の人に向けて発信されるとき、医療情報にまつわるコミュニケーションの問題が立ち現れる。コミュニケーションは情報の伝え手と受け手の双方が存在しないと成り立たないので、これにあわせて問題の切り口も大きくふたつに分類される。つまり「情報の伝え手はどのような工夫をするとよいか」と「情報の受け手はどのような注意をすべきか」のふたつの視点がある。冒頭で紹介したブログは前者の問題を医療従事者の立場から考えているので、ブログへの応答としては前者の問題を素人の立場から考えるのが適切だろう。そこで、このエントリでは情報を伝える側に焦点を当て、おもに公的機関や専門家が不特定多数の一般の人に向けて発信する医療コミュニケーションについて考える。
なおあわてて補足しておくと、わたしは「医療コミュニケーション」と書いたけれども、これは毎回「医療情報にまつわるコミュニケーション」などと書くと長いので短縮するような感覚で使っている。一方、医療コミュニケーションはそれ自体がひとつの学問分野となる対象で、由緒正しい定義があるとおもわれる。当然ながらそういうむずかしい話はわたしにはわからないし、医療コミュニケーション全体を射程に入れた大きな議論を展開する器量もない。今回はコロナパンデミック以来の日常になった場面を念頭に置きながら、ふんわりと話をすすめる。
医療コミュニケーションはどこまで機能しているか
まずそもそもの話として、本邦における医療コミュニケーションはコロナ下でどのくらい機能しているだろうか。あくまで個人的な感覚でいえば、一般の人の多くは医学的科学的な意味でオーソドックスな情報にふれ、それにもとづいて判断や行動をしているように見える。たとえば本邦でコロナワクチンを2回接種した人の割合はおよそ80%に上る(2022年4月末時点)。また家の外に出ればほとんどの人がマスクを着用しており、むしろマスクをしていないと人目をひく状況ですらある。もちろん「よくわからないけどみんなそうしているから」となんとなく行動している人も決して少なくないだろう。
コロナにかかわる医療情報は一般の人にきちんと伝わっているのか。「科学的内容までひっくるめてきちんと理解されているかどうか」を基準にするなら一般の人にはまだまだ伝わっていない気がするし、その意味において医療コミュニケーションには大いに改善の余地があるにちがいない。他方「社会的なレベルでコロナパンデミックに立ち向かう手段として医療コミュニケーションが機能したかどうか」を基準にするなら、本邦では十分すぎるほどに伝わっているように見える。事実、(基本的な感染対策を守るのは大前提として)「過剰な感染対策」をやめていこうと専門家が提言する場面さえ観察される。
わたしの認識を楽観的すぎると感じる人もいるだろう。
わたしは上のようなスタンスに同意はしないけれども、理解は十分できる。実際、いま人類が対峙している相手はCOVID-19という新興感染症で事情が特殊だといえる。これがたとえばがんのように人から人へうつったりしない病気なら、ここまで問題視されないにちがいない(一部のがんはウイルス感染によって引き起こされることが知られているけれども、その話には立ち入らない)。というのも、仮に信頼性の高い医療情報にふれることができずにあまり合理的とはいえない判断を下す患者がいたとしても、人から人へうつることのない病気なら直接的に健康を害するのは患者本人にかぎられる。ところが感染症の場合は患者が適切な対策を取らない場合、不特定多数の人間に感染を広げるおそれがある。自分とまったく縁のない他人がどうなろうと自己責任だし、と無関心でいるわけにもいかない。コロナウイルスの感染力の高さを考えると、なおさら放置はできないのも現実ではある。
医療コミュニケーションの限界とジレンマ
コロナに特有の事情があることは理解できる一方、ワクチン接種の現状を理由に「いまの医療コミュニケーションは十分に機能していない」と結論づけるのは、かなり疑わしいとわたしは考えている。やはりコミュニケーションの成立しない相手が一定数現れるのはさけられないし、話の通じない人にもわかるように発信者側がどれだけ工夫を重ねたとしても限界はある。こうした限界を示唆する例として、箱根駅伝の観戦者数があげられる。
コロナパンデミックが発生してから初の開催となった第97回箱根駅伝(2021年)では、主催者側が沿道での観戦や応援の自粛を求めた。その結果沿道の観戦者数は18万人となり、前年比では85%の減少となった。減少の割合を見るかぎり、自粛要請の呼びかけには十分な効果があっただろう。他方これを裏返しにすれば「自粛要請があったにもかかわらず沿道には18万人もの観戦者がいた」という見方も成り立つ。それでは、この観戦者数は自粛要請の周知徹底が不十分だったことを意味するのだろうか。もし不十分だったとするなら、観戦者の中には自粛要請をまったく知らない人が多数存在したことになる。いくらなんでもこれは考えづらい。それよりも「観戦者の多くは自粛要請を知りつつもどうしても見たくて現地に来ていた」と考える方が現実的ではないだろうか。そして後者の解釈を採用すると、次のような教訓が引き出せる。
「人々に行動や自粛などなにかしらの要旨をした場合、その要請にしたがう人の割合は高くてもせいぜい80%程度で頭打ちとなる。たとえ発信者側がメッセージの内容を工夫し、いろいろな媒体を使って頻繁に発信しても、メッセージがあくまで要請にとどまるかぎり、要請にしたがう人の割合をそれ以上に増やすのはきわめてむずかしい」
ひとつ注意しておくと、これは要請にしたがう人としたがわない人がつねに固定されているという意味ではもちろんない。どんな人でも要請の中身によって素直にしたがう場合もあればそうでない場合もあるのは当然だろう。ただ要請の中身によってしたがう人の内訳はさまざまに変化するにしても、したがう人の割合は要請の中身にかかわらず80%程度が上限ではないかとわたしは考えている。
したがって本邦におけるコロナワクチンの接種率は、むしろ医療コミュニケーションがほぼ最大限に機能していることを裏付けているのではないか。おなじことを反対からいうと、ワクチン接種率のさらなる上積みを目指す手段として医療コミュニケーションはもはや限界ではないかとわたしは見ている。といっても、5歳から11歳の子どもに対するコロナワクチンの接種は開始されたばかりで、この世代の接種率は低い状況にある(2022年4月末時点)。この世代、および保護者を対象とした医療コミュニケーションは今後の課題となるだろう。この事例のように細かく見ると医療コミュニケーションの充実が期待される論点もあるにはある。しかし総じて見ると、コロナにかかわる医療コミュニケーションはおおむね限界まで機能しているようにおもわれる。
こうして専門家や医療従事者の人たちの多くがおそらく感じているにちがいないジレンマの正体がはっきりと浮かびあがってくる。
パターナリズムの誘惑
こうしたジレンマにもどかしさを感じる専門家や医療従事者から、いわゆるパターナリズムのような考えが出てくるのはとくにおどろくことではない。コミュニケーションの努力はするにせよ説得に応じない相手に対しては拒まれてもお節介を焼くよりほかない、というわけだろう。もちろんパターナリスティックな手法にもさまざまなレベルのものが考えられる。間接的なものとしては、たとえばワクチンパスポートのようにワクチンを接種した人にインセンティヴを与える手法がある。もう少し直接的になると、たとえば医療デマについてSNSでの発信を規制したり、検索エンジンから排除したり、さらには出版を自粛するよう求めるなどの手法がありうる。いちばん直接的なものとしては、ワクチン接種やマスク着用の義務化などあからさまな手法が考えられる。
パターナリスティックな手法の是非について、個人的な見解はあえて示さない。ただ、パターナリズムに希望を見出す人の心情には理解できる部分もある。本邦と比較して強力な公衆衛生政策を選択できる国の中には、コロナによる被害を本邦より少なくおさえることに成功した例があるのも事実だろう。一方で、パターナリズムへの希望もいまや潰えようとしている。昨年までは徹底した対策で感染の広がりを抑制しつづけていた国々でも、今年に入りオミクロン株が登場してからは感染拡大に歯止めがかからなくなっている。典型的な例としては中国、韓国、ベトナム、ニュージーランドがあげられる。ここには台湾もふくまれるだろう。
コロナパンデミックがパターナリスティックな手法でさえも封じ込めのむずかしい局面に突入しつつある現状をふまえると、医療コミュニケーションを充実させたところでコロナの前にはまるで効果が期待できないようにおもえる。それでは、医療コミュニケーションはもはや無用の長物なのだろうか。決してそのようなことはないとわたしは考える。ただ、これからの医療コミュニケーションではおそらく目標設定や動機づけがこれまで以上に重要になってくるのではないか。目標設定があいまいなまま闇雲に医療コミュニケーションをつづけると、期待したような効果が現れないことへの焦りから主張が攻撃的になったり、パターナリズムに過大な期待を抱いたり、あるいは現状への失望から虚無感にとらわれたり、まったく無根拠な楽観論に転向したりする人がこれから目に見えて増えるかもしれない。そんな懸念をわたしは抱いている。そこでここからは、医療コミュニケーションは今後どこを目指すのがよいかという問題について、個人的な意見を述べる。最初に結論をいうと「コクーン戦略」がキーワードとなる。
集団免疫とコクーン戦略
コクーン戦略はもともと集団免疫の分野で使われてきたことばなので、原義を手短に説明しておく。
今回の新型コロナにかぎらず、ワクチンはわたしたちが感染症に立ち向かう上で非常に効果的な手段となる。予防接種を受けた人はそのワクチンに対応する感染症にかかりにくくなったり、感染しても重症化しにくくなったりする。一方で、健康上の理由からワクチン接種を受けられない人もいる。たとえば妊娠中の女性や乳幼児、それから抗がん剤治療を受けている人や免疫抑制剤を使っているような人もおそらくこの条件に当てはまるとおもわれる。それでは、やむをえない理由でワクチン接種を受けられない人たちは感染症の脅威に晒されつづけるしかないのだろうか。仮に本人は接種できないとしても、家族などその人と日常的に接触する周囲の人たちが接種を受けて免疫を持っていれば、接種を受けられない人も間接的に保護されるだろう。また不運にも感染してしまった場合、周囲の人たちがワクチン接種を受けて免疫を持っていれば、感染症がそれ以上に広がる危険をいくらか減少させる効果も期待できる。
このように、周囲の人たちがワクチン接種を受けることで接種を受けられない人を間接的に保護する考え方をコクーン戦略(コクーニング)という。コクーン(cocoon)とは繭のことで、要するに接種を受けられない人を繭で包み込むように保護するイメージなのだろう。なおコクーン戦略についての説明は「こどもとおとなのワクチンサイト」を参考にした。集団免疫とコクーン戦略の詳細についてはたとえば下記リンクを参照されたい。
コクーン戦略とその応用
コクーン戦略の考え方は医療コミュニケーションが直面しているジレンマを打開できる可能性を秘めてもいる。
日ごろから信頼性の高い医療情報にふれるなどして医療情報についてのリテラシーを備えている人は、まず医療デマや陰謀論に出くわす機会が少ないだろう。また陰謀論に接触して一時的に興味を持ったとしても比較的早い段階で内容の荒唐無稽さに独力で気づく可能性が高く、傾倒のリスクはそこまで高くないようにおもわれる。一方で、十分なリテラシーを持たない人たちもいる。理系の話題全般が苦手で抵抗を感じる、過去に病院でつらい経験をしたことが心の傷になっている、生活に追われて医療の話題を追いかける余裕がない、インターネットやSNSなどのメディアを使いこなせず情報環境を満足に整えることができない――。抱える事情は人それぞれだろう。いずれにしてもこうした層は陰謀論に接触し傾倒するリスクが高いと見込まれるけれども、同時に医療コミュニケーションによる働きかけが困難なのもこの層だといえる。それでは、医療情報についてのリテラシーが不十分な人たちはデマや陰謀論の脅威に晒されつづけるしかないのだろうか。仮に本人には理解できないとしても、家族などその人と日常的に接触する周囲の人たちが信頼性の高い医療情報にふれて医療リテラシーを持っていれば、むずかしい話が理解できない人も間接的に保護されるだろう。また不運にも陰謀論に接触し傾倒してしまった場合、周囲の人たちが医療リテラシーを十分に備えていれば、陰謀論がそれ以上に広がる危険をいくらか減少させる効果も期待できる。
こうして、周囲の人たちが信頼性の高い医療情報にふれることでリテラシーの不十分な人を間接的に保護するという戦略がうすぼんやりと見えはじめる。つまり、これからの医療コミュニケーションは一般の人に信頼性の高い医療情報をわかりやすく伝えることで、十分なリテラシーを備える人の割合をある程度高い水準に保つことを目標にするとよいのではないか。そしてこうした方針は話の通じない人にも間接的に影響をおよぼすことのできる潜在能力を秘めているのではないか。もちろん医療リテラシーを持っている一般の人の割合を増やそうという方針のもとに行われる医療コミュニケーションの重要性はあらためて確認するまでもない。ただ、十分な医療リテラシーを備えている一般の人の割合に応じて医療コミュニケーションの目標と戦略を使い分けるという発想が求められているのではないか。そのようにわたしは考えている。
医療コミュニケーションにコクーン戦略を取り入れる最大の利点は、やはり医療コミュニケーションのジレンマを解消できるという点につきる。話の通じない人をひとりでも減らさなければという発想で医療コミュニケーションをつづけていると、医療情報の伝え手はジレンマに直面してストレスを感じ、精神的にあまり健康とはいえない状態になることが予想される。事実、一部の専門家や医療従事者が他者に対して妙に権威主義的だったり、相手の意思に関わりなくものごとをすすめようとパターナリスティックな主張を展開したりする場面に出くわすことがある。その背後にはこのような心理の動きがあるのではないかとわたしは見ている。発信者も人間だからストレスを感じるのは当然としても、態度が露骨だと「話の通じない人」として扱われる側は態度を硬化させるし、ひどくなると両者の対立が社会全体に緊張関係や分断をもたらす危険性すらある。話の通じない人たちに無理な働きかけをせず、かといって置き去りにもしない「コクーン戦略」は、ジレンマにとらわれた発信者を解き放つだろう。同時にこの方針は医療コミュニケーションの伝え手と話の通じない人とのあいだに生まれがちな対立関係をいくらか緩和し、世論の分断を抑制できる可能性もある。
「コクーン戦略」の課題
一方で、課題もいくつかある。第一に「どこまでの人を保護対象にふくめるべきか」という問題がある。わたしは集団免疫のコクーン戦略について説明するとき、「接種を受けられない人を間接的に保護する考え方」と述べた。この「接種を受けられない人」とはおもに健康上の理由でワクチン接種を受けられない人を想定したもので、接種をさけるべき特段の事情がないにもかかわらず自己判断で接種しない人は「接種を受けられない人」には基本的に入らない。これは少し考えれば当然の話で、特段の事情がないにもかかわらず接種を受けないような人はコクーン戦略を展開する上でフリーライダーとなる。接種を受けている人からすればその種の人たちの判断が身勝手に見えるのは無理もないし、「なぜ自分だけが接種を受けなければならないのか」「バカバカしいのでマジメに接種するのはやめよう」という空気が広がりかねない。このようにフリーライダーの存在はコクーン戦略の前提を崩壊させ、さらには集団免疫の維持に必要なワクチン接種率を低下させる危険さえはらんでいる。近年本邦において、飼い犬に対する狂犬病ワクチンの接種率が低下しているのは象徴的な例といえる。
医療コミュニケーションにコクーン戦略を取り入れる場合にも、同種の問題がつきまとう。自分の意思で信頼性の高い医療情報を遠ざけ、デマや陰謀論に傾倒する人たちは果たして「コクーン戦略」によって保護されるべきなのか。これは非常にむずかしい。というのもワクチン接種の場合、健康上の理由の有無によって線を引くことができる。他方医療コミュニケーションの場合、話の通じない人はおしなべて本人のリテラシーに問題があると認識されがちな傾向がある。そして一般に知的能力の問題はやむをえない事情と解釈されることは少なく、本人の努力不足と解釈されやすい。とりわけ専門家や医療従事者は頭のわるい人には務まらず、またその職に就くために努力をしている人が多いため、こうした傾向はなおさら強まるにちがいない。医療コミュニケーションにおける「コクーン戦略」を考えるとき、伝え手の目には話の通じない人が全体的に努力不足で自業自得のように見えやすい構造になっている、という点をまず最初にふまえておく必要がある。その上で、明らかに問題のある事例が散見されるのも事実だろう。少なくとも「コクーン戦略」が、専門家の肩書きや学歴、資格などを持ちながら明らかなデマを主張する人や、SNSで陰謀論の拡散に励むインフルエンサーを保護するための概念でないのは言うまでもない。このような人たちにきびしい目が向けられるのは当然としても、リテラシーの不十分な人をすべて排除するのはやはり行きすぎだろう。「どこまでの人を保護対象にふくめるべきか」の問題は境界がはっきりせずグラデーションをなしているので、話の通じない人への対応も濃淡を意識して適切に行う必要があるようにおもわれる。
第二の課題としては、クラスタ化の問題があげられる。「コクーン戦略」は「周囲の人たちが信頼性の高い医療情報にふれることでリテラシーの不十分な人を間接的に保護する」考え方だけれども、これはリテラシーの不十分な人の周囲に医療コミュニケーションによる働きかけの通用する人が多数存在することが前提となっている。ところが現実には、リテラシーの不十分な人はそのような人たちどうしでクラスタを形成する傾向がある。とりわけ近年はSNSの普及によって、いわゆる「エコーチェンバー現象」や「フィルターバブル」のような問題が引き起こされやすくなっている。こうした情報環境は、たとえば反ワクチン団体の出現にもいくらか寄与しているだろう。クラスタの内部では荒唐無稽なデマや陰謀論が「事実」として流通しやすく、医療コミュニケーションによる働きかけは基本的に不可能と考えてよい。このようなクラスタに積極的に介入するには、デマや陰謀論の発信源になっているインフルエンサーの投稿に規制を求めたりアカウントの凍結を求めるといった、パターナリスティックな手法に頼る以外に有力な選択肢は残されていないだろう。なおくり返しになるけれども、パターナリスティックな手法の是非について、個人的な見解はあえて示さない。とりわけ、投稿や発言の場を取り上げることの是非は論点が非常に複雑で、これについて論じることはわたしの手に余る。いずれにしても、クラスタ化の問題に対して「コクーン戦略」は守勢に回らざるをえない。
それでは、デマや陰謀論の飛び交うクラスタに対して「コクーン戦略」は無力なのだろうか。案外そうでもないとわたしは見ている。実際、デマや陰謀論にはさまざまなものがあるけれども、多くの場合に共通しているのは不安を煽る内容になっているという点だろう。こうしたメッセージは社会が未知の事態に巻きこまれ先行きの見通せない状況においては訴求力を持つ。他方、時間が経過すると現実が見えてきて、一部で予測されていたような破滅的な事態はどうやら発生していないらしいこともしだいに明らかになってくる。そして現実との矛盾に直面したデマや陰謀論は、多くの場合より荒唐無稽な内容へと進化する。このような過程をたどるうちにクラスタは多くの脱落者を生み出しながら過激化していく。といっても、ここで外部から新規参入者がたえず供給されつづければクラスタはいつまでも縮小せず、ひどい場合には勢力拡大と過激化が同時に進行する可能性すらある。反対に医療リテラシーを持っている一般の人の割合がある程度高い水準に保たれていれば新規参入者の数は少なくなって、クラスタは縮小、自滅へと向かうだろう。「コクーン戦略」はクラスタ化の問題に対してたしかに即効性はないけれども、そうしたクラスタが生育しにくい土壌をつくるという意味では十分有効ではないか。そのようにわたしは考えている。
そして過激化するクラスタから脱落した人たちに対しては医療コミュニケーションの可能性が開けていることにも注目すべきだろう。たしかにそのような人たちはデマや陰謀論に一度はからめ取られているのも事実で、医療コミュニケーションによる働きかけがむずかしいことに変わりはない。他方、こうした層に対しては共感を前面に出したコミュニケーションの有効性がとくに高いことも予想される。信頼性の高い情報を淡々と伝えるやり方を基本にするのは大前提にしながらも、相手を見てアプローチを変えるのもひとつの方法ではないだろうか。とはいえ現実には、脱落した人たちにきびしい目を向ける人も多いだろう。ただ、きびしい非難がせっかくクラスタから脱落した人を再びクラスタの重力圏へと引き戻すリスクには十分注意する必要があるようにおもう。
おわりに~素人の医療コミュニケーション
ここまで医療コミュニケーションについて、素人がコロナ禍の発生以来考えてきたことを整理してみた。ふりかえってみると、伝え手側の専門家や医療従事者の人たちに素人が注文をつけるような形になってしまっていて、居心地のわるさを感じる。ただ、残念ながらわたしはこれを実践する側に回ることはできない。そもそも素人のわたしには信頼性の高い医療情報を自分で発信すること自体できるはずがない。それをおいても、伝え手として大変にすぐれた専門家や医療従事者の人たちがSNSを少し見渡すだけでも多数確認できる中で、わたしの出る幕などひとつもない。わたしにできるのは、せいぜい分をわきまえ黙っている程度のことしかない。ほかにできることがあるとすれば、信頼性の高い医療情報をシェアすることや、反対に信頼性にとぼしい情報やデマ、陰謀論などは見かけてもシェアしないようにするといった程度のことだろう。
さらにつけ加えれば、ここまでに書いてきたような話は医療情報の発信に真摯に取り組む人たちならとうの昔に把握しているにちがいない。そして実際の医療コミュニケーションの手つきからそんなことは全部お見通しなのだろうと感じさせられる達人たちの姿が見えるのも、わたしにとっては大変心強いことだといえる。わたしにできるのはそうした人々に感謝をしつつ、また情報発信をひそかに支援し、足を引っ張らないようにする程度のことだとおもっている。