【アンカーの思い出】(11)続・青山繁晴氏を分析する

*本エントリは青山繁晴氏のファンを不快にさせるおそれのある記述を含んでいます。ご注意ください。

前回に引き続き、わたしが青山繁晴氏に対して感じてきた「引っかかり」を分析していきたい。課題の3点目、これが最も重要であるが「事実と意見の区別が不明瞭」という点である。この「事実と意見の区別」というのはかなり一般的な原則であるとわたしは考えている。実際これはいわゆる「クリティカル・シンキング」(批判的思考)の基本であり、アメリカでは小学校のカリキュラムに取り入れられているとも聞く。

「事実と意見の区別」という考え方がなぜ大事か、大雑把に説明しておく。まず事実とは物事を考えたり、推論したり、判断したりするための基になるもので、事実にはある種の客観性が求められるが、一方意見とはそれぞれの人が推論や判断をした結果出てくるものであり、要するに主観的なものである。だから端的に違うというのが一点。次に事実についての認識がいい加減だとそれを基にしてなされる判断や意見がすべてナンセンスになってしまうので、事実であるかどうかの判定は厳格であるべきというのが一点。そして事実と意見を区別することで主張などにもし何か間違いがあった場合に、その原因がそもそもの事実認識にあるのか、それとも事実認識は正しいが意見を導き出す過程に間違いがあるのか、問題の特定が容易になるというのが一点。他にも説明すべき点はあると思われるが、「事実と意見の区別」が大事な理由は大体こんなところだろう。

この「事実と意見の区別」は、普遍的に大事なのではないかとわたしは思っている。少なくともこの作法なしにまともな論を展開しようというのは、どの分野であってもまず無理だろう。したがって学者などに限らず、たとえばジャーナリストや報道記者と言われるような人たちについてもこうした作法は身についていて当たり前の「インテリジェンス」の一種(実際はそんなに大袈裟なものではないのだが)であると言ってもよい。ところが日本に限って言うなら、それすら怪しい人たちが少なくないのである。たとえば新聞で社説でもない通常の記事の欄に「議論を呼びそうだ」「波紋を広げそうだ」というような記述を見かけることは決して珍しくないが、これは完全に記者の意見であって事実ではない。そして社説やコラム以外のところに事実と無関係な記者の個人的観測を書くのは、厳密に言えばルール違反のはずである。これはほんの一例であるが、報道の世界では「事実と意見の区別」というものがどうも蔑ろにされているのではないか、というような疑いを濃くせざるを得ないのである。

そして残念なことに青山氏もまた、この区別が不十分であるとわたしは感じる。これはアンカーを視聴してきた限りにおいての判断である(それ以外の青山氏についてはよく知らない)が、「ズバリ」のコーナーでは「事実と意見の区別」が不明瞭なことはたびたびあった。つまり青山氏の「思い」が前面に出すぎるあまり、何かしらの客観的証拠に基づく現実的な可能性が述べられているのか、それとも「こうなってほしい(あるいはなってほしくない)」という青山氏の「思い」が述べられているのか、視聴している側としては直ちに判断できないことが少なくなかった。青山氏にそのようなリテラシーが欠如しているのか、それとも理解はしているが単にプレゼンテーションの方法に問題があるだけなのか、それはわたしには判断できない。ただいずれにせよ「事実と意見の区別」が不明瞭な見せ方というのは、視聴者に対して不親切である。少し前にも書いたように、事実とはすべての判断の基になるものなので厳格に扱うべきだとわたしは考えるが、他方「一緒に考えましょう」と決まって口にする青山氏の実際の手つきを見ると、「本当に一緒に考えさせる気があるのか」などとひねくれた見方を示してみたくもなる。

などと書くと、何やら青山氏に難癖をつけているように思われるかもしれないが、実のところこの問題は枝葉末節ではなく非常に深刻なのである。意味がわからなければ、たとえば「報道ステーション」や「サンデーモーニング」を視聴してみればよい。あれこそが「事実と意見の区別」がつけられない(あるいはわかった上で意図的に混同させている)人々が作っている番組の最たる例である。そして「ズバリ」は程度の差こそあれ、それらの番組と同種の問題を抱えていたわけである。ここまで書けば問題の深刻さは明白ではないだろうか。たしかにアンカーの視聴者が、あれらの番組を大真面目に見ているなどということはよもやないだろうと期待したいところではある。しかしもし仮に「ズバリ」を見るときは何の疑いも持たず、何ならそこで語られていることがすべて「真実」であるかのように考えて視聴していたのだとすれば、やはり「報ステ」や「サンモニ」を大真面目に見ている人たちの態度と変わらない。すなわち政治的な趣味嗜好や支持するイデオロギーの差はあれども、「自分の耳に入れたい情報だけを取り入れるために番組を見ている」という点で、両者は同等ということになりかねないわけである。ここでわたしは敢えてアンカーの視聴者をも試すようなことを書くが、たとえば「報ステ」を鼻で笑いながら「ズバリ」を何の疑いも持たずに見ているような人はいなかっただろうか、という点がわたしはやはり気にかかっている。もちろんアンカーに限らずどんな番組でも無批判な視聴者を作り出す危険は付き物ではある。ただひとつ確実に言えることは、特定の番組を無批判に視聴するような人が別の番組を批判したり、ましてや「偏向」を主張しても説得力に乏しいということである。そして、もし仮に「ズバリ」がそういう問題に無自覚な人たちを増やすことに大きく寄与していたなら、わたしは水曜日のアンカーに対してもっときびしい評価を下さざるを得なくなるだろう。これはわたしの杞憂であってほしいと思っているが。

以上が青山繁晴氏に対するわたしなりの分析結果である。なお念のために言うと、わたしは青山氏を嫌っているわけではない。本当に嫌いなら番組を毎週視聴しようなどとは考えない。そもそも本当に嫌いならここまで回りくどい長文を書くなどという面倒なこともせず、Twitterでもっと冷たく批判しているだろう。それどころかわたしは青山氏の話には他で聞けない独特の味わいがあって面白いと思っており、同時に話半分で聞く必要があるとも思っているが、総じて話を聞く価値はあると判断している。そしてだからこそ、今回と前回で書いてきたようなことがずっと気になっていた。これは青山氏に対するわたしなりの提言であり、また番組を1年間視聴させてもらったことに対する「恩返し」のつもりでもある。だから何かを強要するものでは無論ないし、今まで通りご自由にやってもらえればいいと思っている。おそらく青山氏も悪意があってやっているわけではないのだろう。そう信じたいところであるが、同時に自分が他者からどのように見られているかということに気づけないほど頭の悪い人とも思えないので、よくわからない。つくづく、評価の難しい人である。

なお、わたしが青山氏に対しての見解を述べるのはこれが初めてではない。このことは過去何度かTwitterでも発言している。その断片をつないでまとまった文章の形にしてみたところ、予定していた分量を大幅に超過してしまった。次回からは、もう少し軽い話題について述べたいと思う。(第12回に続く)

(※この文章は筆者の個人的な回想であり、事実を正確に反映したものであるとは限りません。)