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「若さ」が通用しなくなっていることを自覚できていないのかもしれない

最近、めっきり「若いね」と言われなくなった。
当たり前だ。だってもう若くないんだから。

でも、自分がもう若くないことを、自覚しているつもりでできていないことがあるような気がしてモヤモヤするのでここで言語化しておきたい。

美容とか、体力とか、いろんな面で「25歳をピークに○○が減少します」という話は多い。それは確かにその通りだと思う。

でもそれ以上に私自身が一番感じているのは、周囲からの評価の変化だ。それまでは「若いのにこんなことできてすごい!」と言われていたことが、ある一定のラインを超えた瞬間に"当たり前”になる。

個人的な感覚で恐縮だが、「(若いのに)すごいね!」と言われることは、25歳から徐々に減りはじめ、27歳ごろにはほぼゼロになった。

「赤ちゃんは いいなうんちで ほめられて」

映画「テルマエロマエ」の中で、主人公のルシウスが現代日本のトイレに感動しているシーンがあり、そのとき彼が手にしているトイレットペーパーに「赤ちゃんは  いいなうんちで ほめられて」という川柳が書かれている。

私の中で、この言葉がずーっと心に残っていたのだが、最近また思い出すようになった。

結局そういうことなんだ。

私たちは好む好まざるに関わらず、周囲からの評価を浴びて生きている。そしてその評価を決める要因として「年齢」は無視できない程度関わっている。

新入社員であれば、元気に挨拶ができて前向きに仕事に取り組んでいればそれで良かったかもしれないが、30代にもなってそれだけでは通用しない。

これまでポジティブに働いていてくれていた「若さ」パワーの効力がなくなった今、それを別の何かで補わなければ、評価は下がる一方だ。

評価は常に相手がする

「いやいや、人の評価なんて気にせず自分軸で生きていけばいいじゃん」

と思うのもわかる。というか私の中にも確かにそういう気持ちもある。でも他者からの評価に左右されず生きていくことは可能なのだろうか?

おそらく、無理だろう。

私は個人事業主として働いている。取引先からの評価がなければ、仕事は発生しない。仕事がなければ生活できないし困る。

会社だって、上司に評価されなければ昇進できないし、逆に部下に評価されなければトップにはなれない。会社で評価されなければ、いつまでたっても給料は低いままだ。困る。

仕事だけではなく、プライベートでも私たちは数多の評価にさらされながら生きている。そしてその全ての評価は、自分ではなく他人が決めているのだ。

自分自身は年齢で評価されたくないと思っていても、相手にそれを求めるのはなかなか難しい。

これまでの加算ポイントを認識する

これまで「若さ」ゆえに、ポイントが加算されてきたこと。そこを自覚しないと後々大変なんじゃないかと、最近よく思う。

ある日突然、「若いね」と言われなくなり、これまで褒められてきたこと、評価されてきたことが、「できて当たり前のこと」として求められる。

これまで無条件で履かせてもらっていた下駄を脱がなければなくなった今、他の何かでその分の高さを出すことができなければ、ここで評価はガクンと下がることになる。

え、気づいてる?
これってみんな普通に気づいていることなの?

私は来月30歳の誕生日を迎えるのだけど、それもあって最近は、「これからはガチで仕事で結果出していかないと、お払い箱だな」という危機感を持っているつもりだ。

それでも、過去に褒められた言葉、評価されてきた経験にすがりたくなることが多々あるし、無意識に溺れ、驕っていることも実際にはある。

「若さ」がいなくなるタイミングは誰も教えてくれない

これまで評価されてきたことは、自分の実力だったと思いたい。年齢や性別のフィルターを外しても、評価されるに値する自分だったと思いたい。

でも、必ずしもそうではない。

「若さ」はある日突然いなくなる。

そしてそのタイミングは誰も教えてくれないし、自分も気づかないかもしれない。知らぬ間に自らの評価は変わっているし、過去の評価の心地よさに浸っているうちに、そのポジションは「他の若いだれか」にきっと変わってしまう。

年齢を重ねるというのはこういうことなのか、と強く感じる今日このごろ。




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