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許容量と寛容度の間で

あと1週間ほどで、平成から令和へ
元号が変わろうとしている今、
社会はどこかおかしな時代のまま移ろう
としているのではないかと不安になる。
この胸の内がざわついた感じは今までにない。
これを意識や水準の劣化とする人も
結構いるようだ。
でもそれだけではこのざわつき感は
収まりをみせない。

その大本はどこにあるのかと考えて
いくとふたつのあることが頭に浮かぶ。
一つは「身勝手な許容範囲の拡大」、
もう一つは「不寛容さ」だ。

記憶に新しいところでは、2024年に発行
される新紙幣の五千円札の肖像となった
津田梅子の反転写真問題だろう。
津田塾大学が提供した写真4点のうち、
1点の写真が基になっているが、
明らかに写真を反転して使用している。

これをデザイナーや写真家、写真研究家ら
がいち早く指摘し、その後ネットでも
多くの人が問題視しているにも関わらず、
財務省はおろか政府も問題なしという
姿勢を崩さない。

これ以前にも、問題とされながらも、
うやむやになったことがいろいろある。
勤労統計のデータ改ざんや
首相官邸への入廷記録や議事録の破棄、
労働データの捏造、自衛隊海外派兵日報の
隠蔽、森本・加計問題で見られた公文書の
改ざんや破棄など、
挙げれば枚挙にいとまがない。

これらは総理や政権与党に対する過剰な
忖度が起こしたというがそれだけだろうか。
本来なら起こりえないこと、あっては
いけないことが立て続けに起きている。
その根っこには何かあるのではないかと
思ってきた。
今の社会や時代には、仕事だけではなく
何事にも「丁寧さ」が欠けているという
指摘も多く聞かれる。

「これくらいはいいだろう」
「これくらいならわかりはしない」
「これくらいやっても問題にはならない」
これらはすべて許容範囲の内だから
やっても許されるという場合の言い草だ。

その許容範囲を身勝手に拡大しているのが
現在起きていることの大本ではないか。
身勝手に拡大する、あるいは拡大解釈する
というのは自分の都合で決めているので、
どこにもコンセンサスは必要がない。
しかし、これは易きに流れると一緒で、
広く社会を蝕んでいくことになる。

考えてみればいい。
例えば、航空機の整備工が、整備の後に
1本ねじが余っていたらどうだろう?
いつも聞いているエンジン音に紛れて
聞きなれない音が小さく聞こえていたら
どうだろう?
このくらいいいだろうと整備工が報告
しなかったらどうだろう?

上で挙げた紙幣の図案の問題も同じだ。
プロであれば本来やってはいけないことと
いいことの判別はつくものだ。
デザイナーは線の1本でも曲がっていれば
気づく。一般の人が気づかない範囲でも、
平行でならないところにほんの少し歪みが
あれば気づく。気づけば直さないことには
気持ちが悪い。
それくらい繊細な目を持っている。

それなのに、肖像写真が反転であることを
問題なしとして仕上げる不気味さがある。
仮に、現段階ではこの図案が作業途中の
ものであったとしても、そこに政治的事情
が絡んでいるとしても、
公に出すということは、納得できる説明が
ない限りは それを許したことになる。

統計データの分析官も同じ。
公文書管理の行政官も同じ。
その不気味さを知っているはずだと思う。
それを払拭するには、許容範囲を拡大する
しか方法はない。
(不感症になるという方法もあるにはあるが)
だが、それはまったく身勝手な方法では
ないだろうか。

こういうことが国レベルで起きているのが
現在の日本ではないだろうか。

その一方で、日本社会から「寛容さ」が
失われているとも言われる。
ちょっとした過ちでも許さない。
謝罪しろ、訂正しろと騒ぎ立てる。
極度な緊張感を強いる社会にしてしまう。
規則は守られてしかるべきものだけど、
過剰なまでの社会的制裁を課そうとする。
そして、騒ぎ立てる人はたいてい、
匿名という蓑を羽織り、姿を晒さない。

何事も白黒はっきりさせなければ許さない
とするのは異常でさえあると思う。
もちろん、公にはっきりさせる必要がある
問題まで隠せというものではない。

この「身勝手な許容範囲の拡大」と
「不寛容さ」は別物のように見えるけれど、
実は同根ではないかと思える。
本来向けられるべきところに注力するのでは
なく、また、抗うところに向かうのではなく、
その犠牲を強いられるところに向けられる
理不尽さがある。

それを思うと不気味さを感じると同時に
気持ち悪さが拭いきれない。
やがてそれさえも
社会は不感症になっていくのだろうか。


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