遊びの中に発明がある

 「昔のこどもは遊びを発明していたが、今のこどもは遊びを発明することが少なくなった」という話を聞いたことがないでしょうか? また、思い当たる節はないでしょうか?
 今のこどもたちの周りには、商品化された「遊び」が溢れていて、「遊び」を発明する、あるいは工夫する必要がないからだそうです。モノや情報が溢れているのは大人社会に限ったことではなく、その影響が顕著に現れるのはこどもの世界です。商品化された「遊び」は、次から次へとバージョンアップはするし、新シリーズは出るわで、その攻略法を探し出すことにエネルギーを費やし、「遊び」を発明する時間はないそうです。
 もちろんモノや情報が多いことは悪いことではありません。これはこどもだけではなく大人にも言えることですが、創造力や想像力、物事の判断力の基礎ができていないうちに、溢れるほどのモノや情報に触れるとその感覚が育たなくなるそうです。その結果どのようなことになるかといえば、判断基準は他者まかせ、情報まかせになる傾向が強くなります。すなわち、情報に振り回される、自分の判断ができなくなる、自分の意見が持てなくなるといいます。だから、情報が入らないことに対する恐怖、みんなと違う意見を持つことから生まれる疎外感、マニュアル依存症などが現れることになります。
 学校教育の中でも、創意工夫する機会が少なくなっているそうです。理科の実験はビデオやプリント(資料)でシミュレーションする、図工や美術の時間は主要教科でないため削られるなど偏りを見せています。
 もうかなり前のことになりますが、私が学生時代にもその傾向は現れていました。アルバイトで家庭教師をしていたときのことですが、生徒が通う学校では理科の実験や実習の時間が少ないのです。それらは、プリントや資料などで知識として学ぶことになっており、体験することが少ないことを知りました。その結果、理科が嫌いになるのです。本来、こどものころは体験的に身につける知識が必要なはずです。理科や社会科、美術や音楽などの教科は体感の中からいくつもの発見をする、そのプロセスが大切なのです。
 私の生徒たちは、どちらかといえば成績的には優秀な生徒たちではなかったので、むしろ学習テーマのおもしろさや楽しさを教えました。問題を解くよりも理科の実験をやったり、天体望遠鏡で星を見たり、美術館へ行って鑑賞したり、できるだけ体験的な学習を行いました。すると、それまで興味を示さなかった、どちらかといえば嫌いだった教科に興味を持ち、理解力も上がりました。何より学習を楽しむようになり積極性が増しました。性格も明るくなったのです。そのことが、成績が顕著に上がることより嬉しかったのを覚えています。
 「遊び」の中には、道具を創る、ゲームを考案する、落書きをするなどの要素があります。みんな発明や創作の仲間です。よくこどもは「遊びの天才だ」と言いますが、最近は「遊びの秀才」なのだそうです。突拍子もない発想や、自ら工夫することをしないで、与えられたものを攻略する学習意欲や能力に優れているそうです。自分で創ることを考えるより、お店に行く方が効率的なのでしょう。でも、効率的でなくても効果的な方法はあるものです。どちらを優先するかはそのときの判断ですが、短絡的に結果を出すことを求めるのか、長いレンジで結果を見るのかによって変わってきます。
 「遊び」の選択肢が多いのはいいことです。しかし、その選択することに想像力が伴うことが必要だと思います。短絡的な判断は、時には、刹那的だったりします。考えることや表現すること、創ることを楽しめるような環境は残していかなければならないと考えます。
 すべての人たちに、特に、未来をつくるこどもたちに。
(初出:1999.12)

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