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相対主義、アナキズム、降りること、等について


今日はある本のトークイベントに行ってきた。自分のアンテナがキャッチしたものを書き留めておこうと思う。話があちこちに飛んでしまうが許してほしい。

◯中立ぶった人
今の世の中の空気として、主張しようとすると、中立ぶった人からディスられると言う話があった。中立「ぶった」というのがうまい言い方だと思った。自分もそっちに立ってしまっているんだろうなと思う。
この話を聞いて、2015年の安全保障関連法案などへの反対運動を思い出した。当時、学生団体SEALDs等が国会前でデモを行っていた。当時私は大学1年生(18)、事態をよく理解していなかったものの、どうなっているんだろうこれは只事ではないなと思って、国会前まで1人で見に行ったことがある。何も知らない私は、ただただ悲しくなって帰ってきただけだった。これって中立ぶってるってことなのかも。
その時の気持ちをラジオ番組の掲示板に書き込んだら電話が来て、出演したときの記録↓
https://www.tfm.co.jp/lock/staff/kakomon/smartphone/index.php?itemid=6500

18歳の私が「一緒に考えて一緒に幸せになれればいいのに」と言っている。今思うと、それは理想的ではあるけれど、「どんなに頑張っても理解できない事や人がある」ってことを知らなかったから言えた台詞なんだろう。社会人になって、自分には到底理解できない(自分から見て)意地悪な人やずるい人がいることを知って、非常に苦しんだ今では、もうそんなふうには言えない。悲しいけど。「分かり合えるはず」っていう純粋な希望が打ち砕かれて、「分かり合うことなんてできない」という冷めた気持ちが今の私の中にはある。これは大人になったってことなのか?自分で言うのも変だけど、当時の私の純粋さ?が、見る人によってはウザかったのかもしれないと思ったり。でも「分かり合えない」で終わらせられないことだってあるしなーむにゃむにゃ

◯相対主義
相対主義というのがあるけれど、全てを相対的に見てしまうのってどうなの?!という話もあった。全てを相対的に見てしまうと、例えば差別や暴力などの明らかにおかしいことも、「それはそれで正しいよね」とできてしまうということだ。たしかに…それでおかしなことでも何でもアリ!になってしまったら困る。
私は大学時代に相対主義について研究していたので、これは興味深かった。研究していたといっても、興味があって卒論でテーマにしたものの、よくわからないまま終わってしまったのだが。私の問題提起は、相対主義が正しいとすると、絶対主義(これが絶対正しい!他の意見は認めない!みたいな)も、それはそれで正しいということになり、それは相対主義と矛盾するのではないか?!みたいな問題だった。結局この問題はよく分からなかったけど、私の当時の結論としては、相対主義が正しいとしても、自分とは別の価値観を理解できないことがあるってことを理解しておくのが大事なんじゃないか…みたいなものだった。
相対主義に関連して最近新しく知ったのが、「間文化主義」というもので、「中心文化を認めないカナダの多文化主義とは異なり、中心文化とマイノリティの文化が互いを尊重しながら交流することによって、一つの新しい文化を築きあげていこうという間文化主義。」らしい。
引用-https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784779124310#:~:text=そんな中で、カナダの,こうという間文化主義%E3%80%82

具体的にどんな主義なのか分かっていないので、図書館で本を借りて読んでみたいと思う。また、ちょうど今年私はカナダへ渡航予定で、ケベックにも行くつもりだ。最初の目的地はバンクーバーなので、ケベックに行けるのは早くても半年後くらいになってしまうだろうが…行ったところで間文化主義を感じられるのか?分からないが。非常に楽しみだ。そもそも私がカナダへ行こうと思ったのは、カナダは多文化で、多様性を尊重される国だと聞いたからだ。私が日本でこれまでに勤めた会社では、人と違うと潰されたり非難されたりする空気を感じていたので、もうそんな空気が嫌だったからというだけの理由だ。もしかしたら日本にもそうじゃない会社はあったのかもしれない。私が入れなかっただけかもしれない。私が変だったのかもしれない。カナダに行ったって上手くいかないかもしれない。不安なことしかないし、全てが大変なことが予想される。家も仕事も見つからないと聞く。このまま日本にいた方がお金もかからないし安全に決まっている。それでも私は行く。日本とどんな風に違い、どんな風に生きやすいのか、生きづらいのか。この目でこの全身で確かめてみたい。もしもそこが私の想像を遥かに超えるような場所だったら…
自分の世界を広がることにドキドキする。

◯アリ地獄に自ら入っていくアリ
という例えがあった。辛い状況に自ら入っていって、そこに慣れちゃうのが怖いよねという話だった気がする。そこで、アリ同士?奴隷同士で批判し合う、それを奴隷根性といった人がいるらしい。これは自分の前職の環境が当てはまるなと思った。そこはすごく辛い環境で、皆が辛そうだったのだけれど、愚痴が絶えなかった。(私にとっては)意地悪な人もいてとても怖かった。私は我慢できなかったので抜け出し、今無職をやっているのだが、抜け出すのは容易ではなかった。もともと意地悪な人、というだけでなく、環境がそうさせていた面もあったような気がする。そして誰かが抜けると他が苦しむから、ずっといる人(主と私は呼んでいる。それは本当の主ではなくて、主みたいに振る舞っているアリだったのだろうか。だって本当の主は社長なのだから)が抜けることを非難したりして、愚痴は一生止まない。
客観的に見ると私は無職であり、収入0の消費するだけの人間であり、先行き不透明でどうしようもないやつのようなのだが、前職がアリ地獄だったとすると、私は慣れちゃわないで抜け出せたということになる。にしても、抜けると言ってから抜けるまでの数ヶ月間、地獄だったな…

◯どうやって降りる?
今の世の中は、稼げるか、有能か、のように、金という尺度によって人間が測られている。そこからどう降りるか、という話になった。この「有能な人に価値がある」みたいな考えに、私も長いこと囚われていた。今でも囚われているような気がするし、もともとは環境によって植え付けられた価値観かもしれないが、いつのまにか、誰よりも自分が、この尺度によって自分を測っていた。それはとても苦しい。だっていつまでたっても終わりがないし、私はこの尺度で測ると完全に価値がない側のようだったから。職場の環境に適応できないし、8時間労働は辛いし、残業はイヤだし。あれこれ考えるのが好きだけど、それはおとなしく言うこと聞く社員を求めている上司からしたら邪魔だし。就職しなきゃ、何者かであれ…生の負債化という言葉も出てきた。そういえばハローワークでもそんなこと感じたな。
そこから降りるためにどうしたらいいか…ポイントは人や環境なのかもしれない。役に立つかどうかじゃなくムダに人に会いにいく、横道に降りる、肩書きからずれていく…いろんな話があった。具体的なことは何もなかったし、聞くのは野暮なんだろうと分かった。それは自分で考えて実践しないといけないのだろう。この曖昧な話を胸に、私はいろんなことをやってみようと思った。
1人でいると、同じ方向に深めるしかなくなってくるという話もあった。これは、今の自分に当てはまるなあと思った。まさに今、そんなふうになっている。動こう、歩こう。人に会いに行こう。

◯相互扶助
アナキズムがもつ「相互扶助」の精神について。私はアナキズムという言葉を最近知ったので、よく分かっていないが、無政府主義と訳されることが多い。実際の意味は、無政府というより無支配が近いらしいのだが。私は今の時点で結構共感しているのだが、相互扶助は果たして実現できるのか?という点は疑問に思っている。というのも、社会に出てからイヤというほど、人の足を引っ張ったり意地の悪いことをしたりする人がいるんだ、ということを味わったから。無視してくる人なんかもいる。無視って酷い。そんな人と相互扶助できるとは思えないなー、とか。こちらが相互扶助を目指していても、他の人が目指してなかったらそれは相互にはならないし。相互扶助って何かもよく分からないながら、そんなことをぼんやり考えた。

◯よく知らないので調べたい言葉たち、本
マイクロアグレッション?
ネガティブケイパビリティ
アナーキー
アナキズム
相互扶助
ネオなんとか信条主義?(何だったか忘れちゃった。1人で考えてると同じ方向にしか深められないよーって話で出てきた)
マルクス主義
生きのびるための暴力論
デビットグレーバー

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