見出し画像

木の芽どき

お米が一年に一度実るように(いや二期作があるが)、春もその年一度だけ。もう四十数回、いろんな春を味わったはずなのに、記憶はスカスカしている。仕事やらなにやらで、だいたい屋内にいる時間が多かったのだ。ここ三年くらい朝は職場へすっ飛んで、ロールカーテンの端から覗く光の加減で夜を知ったものだ。半ドンや休日なんて、外の光の加減で見事に際立つ景色をチラ見しながらばたついているか、家事以外では死んだように寝てるかだった。
こんなふんだんに小川の水量の増減で変化するせせらぎの音や、去年あたりから近くに住みはじめた、なんとも微笑ましい間寛平さん似の鳴き声のカラス。草木の色や形の変化などなど。こんな全視界聴覚嗅覚も良好な状態で立ち止まって見られることに、うれしいより先に戸惑っているわたしがいる。
農業。もろもろの手仕事。そのほか興味のあるものへの参加。

……。
…今ならできるやないの!
会社勤めを辞め、自由に時間割を決めて一日をデザインできるチャンスを知らずと作っていた。退職にかなりのエネルギーを消耗し、身体と心のデトックス期間が長引き、このことに気づいたのはつい一週間ほど前のことだ。相変わらずトロい。慌てて次の職に就こうと算段していた。
子どものころ、学校の帰り道は小川に足を突っ込んで川底をすり足で進み、途中から裸足でタニシや沢ドジョウ、カエルやオタマジャクシを捕まえたり、足がキンと冷えてもちいさな植物を眺め続けていた。
生粋の街暮らしの人が街から出られないように、わたしはこの山から切り離されては生きていけない。
生活のすべてが足元にある暮らし。
学校も仕事も、病院も日用品のすべてが歩いて手に入る暮らしに憧れていたはずなのに、職場がどんどん家から遠くなっていった。
医者もエンジニアも畑仕事をするしかなかったキューバは、いまや基本的に教育・医療費無料。キューバ危機以降の必要に迫られた結果の、大規模農業からの小規模有機(国際基準とは違うようだけど)農業への転換。並行して乗合バスで職場や学校を往復したそうだ。
生活のすべてが足元にある。
時間、エネルギーの節約。
地域の土台のコミュニティも活きる。
数年前このことを映画で知って、共感した。10年前は農産物の自給がまだ足りず、売値も安いせいで農業以外の仕事につく人が増えてたようだけど、今はどうなんだろう。
うちはいずれ介護と並行して働く可能性が高い。住まいと職場や学校・病院その他施設などがかけ離れているのは、本当にナンセンスだと思う。これは、老後を迎える前にわざわざそういう地域に引っ越したり、リフォームしたりなんて手間がいらなくていい。限られた時間をどう使っても自由だけど、これからよくよく考えてみようと思う。

たぶんわたしの場合、望む豊かさの奥行きは、安心や喜び・辛さも含めて関わる人たちと、どれだけうちとけあえるか・分かち合えるかにかかっている。根っこはどうにも人見知りだからハードル高い。
雪の下で退色気味だった緑が力強く広がるさまを、見届けられる暮らし。
…まずは、しゃがんで土に触れてみる。
そして、何からはじめたらいいのか、家族や近所の人たちに聞いてみよう。

なんでか、
憧れのまま終わらせそうだったことを、手元に引き寄せて大事にしたくなった、この春。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?