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つい昨日は母方の祖母の17回忌の法要だった。
叔父さん、叔母さん、従兄弟たち…。
ほんの数年会わなかっただけなのに、皆どこか曲がったり傾いたり、年齢以上に日々の痛みで漂白された表情をしていた。
檀家さん一家の時の流れを見ていると、若いころのちょっとしたクセは、歳を重ねるほど抜けないもんだとH氏は、言っていた。
どの人も頑固なものはより頑固に、のんびりしたものはよりのんびりに、乾いた膠のように性分が皮膚と見分けがつかないくらいこびりつき、煮締まる。その濃い煮こごりの残渣に向けて、それまでの人生を讃え、感謝し、死者や家族のこれからの安寧を断言し、別れを告げる。
子どものころ大人だった人、少し上の人、ずっと下の人…。送る度に深く自分の生、家族の生、世の中全体のいのちの営みについて思い、考えると言っていた。

もう20年以上前、『100光年』と題した写真が美術雑誌の大賞をとっていた。
日本各地の百歳を越えるひと達の肖像写真。
家の内外を背景に、立位や坐位でレンズを見つめる顔、体全体、どの人も同じではない。
一人一人の100年という時に吹きさらされた、他と見間違えようのない、なんとも独特な異次元の入り口に向かい合ったようだった。
それは、弾けて消えるような泡ではない。
その物理的100年を通過し、濾過されたからこそ存在しうる、一個のいのちの逞しさそのものだった。
なにか打たれて、その中の何人かの風情をスケッチブックに描き取ろうとしたこともあったな。鉛筆握ってるの、好きだったし。

さて、あれこれとお坊さんや皆の話を聞きながら、こうやって個が彫刻されるのかと一人納得した。
簡単に名付けようのない、互いの日々の営みが、位牌の向こうへ縒り合わされ、また解かれしているのを、その糸の一本としてのわたしが読経しながら見ていた。

あ、道元さんって、究極は只管打坐だけで良いって言ってるんでしょ。
そこで読んだお経には、般若心経と観音経以外、結構ああせいこうせいがあって、ちょっとイメージと違ってた。
真言宗の日常生活動作一つ一つのマントラにもびっくりしたけど、仏教を日常の暮らしに重ねるというのは、こういう脱皮を繰り返してよりその土地の人々に沿うよう、変化していってるのだな。

そして、うん、こうやってお膳を囲んでやりとりしたり、同じものに手を合わせたりするのは、いろんなことを一度脇に置いて、そっといまを胸に問い直すのに良いことかもしれない。

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