浮いたカカトの下を覗く

退職して1ヶ月と少し。
曖昧な世界との境界、ふよふよした皮一枚の皺の一本一本をなぞって、ゆっくり確かめていた。
握りしめたこぶしが、取り戻した日常の温かい血液が通うにつれて、やっとやわやわと緩んできた。

使い込んだ身体の節々が、外へ外へ痛みの声を上げ始めて1週間後、知らずとそこらじゅうに手が伸びてほぐしていた。
痛みを抜くためというより、いまの自分のありようを念入りに聴いている感じ。
触れていくと、忙しさに紛れて忘れていた記憶と出会う。それらの痛みの起伏を辿り、その芯の中心を、そのこわばりの全体を俯瞰する。
頭のてっぺんからつま先まで、繰り返していった。まだ緩まないところはあるけれど、ずいぶんと楽になった。

そして、ご飯がおいしい。
おなじお米を炊いて食べているのに、まったく味が違う。正月の餅三昧が明けて普段の食卓にかえってみると、食材の味のひとつひとつがグンと伸びをして、力強くなっていた。噛むたびに湧くうま味に、身体ばかりじゃなくわたし全体が喜ぶ。
いただきます。
このことばと所作への思いが重なって、箸を止めてご飯と味噌汁お菜に向かいあった。目の前にある、こんなに豊かなことをいままで受け取れなかったんだな。手放したときにはまったく気づかなかった。ご飯をほおばる子どもを見ては、わたしも一口、食べる。

新しいリズムに慣れ始めたつい最近、間欠泉のようにとぎれとぎれだった感情の塊が、まとめて噴き出してきた。子どものいう通り、終わったんだからもう思わなくていいことが後から後から、弾けそうなくらい飛び出してきた。整理しきれなくて、いったん言葉に出して山積みにした。そして、しばらく静かにその散らかった断片を眺めた。ありがたいことに、ほどなくガスが抜けた。
書くって、すごいな。
noteの非公開マガジンに入れたつもりが公開になってて、読んだ方々には私的な感情をぶつけた文章で目を汚してしまい、大変申し訳ない。でも、一度形に出すとこんなに自分を客観視できるのかと、嬉しい驚きもあった。
何かあると古き良き過去の日に還って、つい比較してしまうアホなわたしを一掃しようと思い立ち、いままでを書くことですべて捨てよう、カラッポになろうと思っていた矢先だった。

ダンディーダン吉も胃腸炎からやっと脱出し、インフルかと見紛うばかりの子どもの風邪も治りました。
わたしももろもろ吹っ切れて、その時より楽に、少しだけ前進しています。

言葉に表すことって、ときとして、大事なんだな。
自分に対しても、モヤ〜ッと空気読んでくれよ派だったんだな。
…発見。
気をつけよ。
そして、足の裏に地面感じながらやってこ。

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